潮江文次郎と芳川菜生 

(夕闇の訪れにはまだ少し早い時間、見慣れた教室で静かに――)
潮江文次郎(随分長い時間が経っている錯覚すら起こしてしまう予算会議も、あと少しで終わる。休憩を挟んだお蔭で、軽くなった身は保健室を後にしてからも順調に働いてくれた。休憩の分を取り戻すようにあちらへこちらへと勝負を繰り返して、そろそろ対面する相手も少なくなって来れば、ゆったりとした足取りで向かうのは、会計室ではなく、過ごし慣れた、六年い組の、教室―。この時間に残っている生徒など、委員会や部活のものが精々だろう。それを物語るように、教室の並ぶ廊下は静まり返っていて、自身の上履きのゴムが擦れる音だけが響いていた。今回の予算会議も例年通りの騒々しさだったけど、会計委員長としての強気の姿勢を崩さないまま、誇れる働きは、出来ていただろうか――。カラカラ、と大人しく扉を開いた先の教室は、矢張り無人。明かりの点されていない教室は、少し暗いくらいで。それでも、どこか落ち着かせてくれただろうか。己の席、机に腰掛けて、自然と移る視線は、黒板でも、窓の外でもなくて、―彼女の席へと向けられる。予算会議中、彼女の存在が一番の気掛かりだったと言っても過言はなかっただなんて、本当に、あのスパイ活動は、ある意味では、効果があったのだろうとは、思うから。だから、予算会議が終わる前に―終わるからこそ、彼女と話しておきたいと思うままに携帯電話を取り出せば、メールを作成し始めようか。短いメールに、彼女が反応してくれるかは分からないけど――送信ボタンを静かに押せば、決意を固めるように、深く息を吐いた、)

見慣れてる筈なのに、今日ばかりは静かな教室が非日常みたいね。
芳川菜生(―携帯のメールに気付いたのは、廊下で四年生と分かれて直ぐ。マナーモードにしていた所為で気付くのが遅れたか、それとも委員の皆と携帯で連絡を取り合っているからチェックを欠かさなかった事で早めに気付けたか。兎に角思いがけない相手からのメールに息を飲んだ後、親切で送ってくれたらしい文面に気を抜きつつ返信しておいて。見上げた空は夕暮れ色、もうすぐ予算会議も終了する刻限なのを踏まえれば、私物を取りに教室へ寄るのも許されるだろうと判断して、帰りにと言ったものの忘れない内にその足は教室への慣れた道を辿る事にした。予算会議は頑張った、力の及ぶ限り働いた、けれど―それでも浮かべていた笑顔の隅のほうで、振り切れない悩みが終始付いて回って気が漫ろだったのも事実。それで一人自己嫌悪に陥っていたら世話がないというに、過日のように彼の声で距離を取らなければいけない事を思い知るのがこわくて、逃げを打つ己が疎ましいのに、どう対処してよいか分からない。思えば好き好んで面倒を見たり心配したりと進んで関わる事は多かったのに、こうして誰かから自分に向けられる感情を意識した事はなかったなあ と、その理由について理解していながら、向き合う後一歩の決心を掴み損ねたまま。引いた扉の向こうに件の彼がいる事を予期していなかった所為か、虚を衝かれてあんぐりと大口を開けて数秒、羞恥を誤魔化すように慌てた素振りを見せるその顔は若干赤く、情けない程ぎこちない、)わ、わあ、びっくりした!…もうすぐ予算会議終わるから、てっきり会計室に戻ったの、かと、(―ふたり、きり。認識した途端に煩く跳ねる心音が、そんなふうに浅ましく意識する自分が、なんだか自分ではないみたいで嫌なのだ。彼といると、おかしく、なってしまう――それを厭うて彼の一列横、三つ後ろの己の席へと足早に向かって机を覗き込み、空のそこに首を傾げば、そういえば忘れ物もなにも今日は教室に寄らず朝一で保健室に向かったのを、思い出す。)……?…、ええと……、…?(悩み事と忙しさにかまけてそんな事も忘れていたなんて、言い訳にしては不出来だけれど。普段の素行からして彼の厚意によるメールだと信じて疑わずに、状況を把握しかねているまあるい瞳が彼と己の机とを何度か見比べた後、困惑に揺れて そっと、またたいた。)

人がいない所為もあるだろうがな。…だが、これも悪くはない。
潮江文次郎(用がある―そんなメールを送らなかったのは、もしかしたらささやかな意地の現れだったのかもしれない。忘れ物と言えば、彼女が明日へと先延ばしする事はないように思えたし、虚を衝けばこそ、本音が窺えるのではないか―なんて。打算的な自身に内心呆れながら、程なくして受信を知らせる携帯のバイブに、一つ息を呑んだ。メールに気が付かないかもしれないと言う危惧は、これでなくなった。帰り、がどれ程遅くなるかは分からないが、この場にいれば、確実に彼女はやってくるだろうから。後輩達に会計室へ向かうのが遅くなるから先に帰っていて構わないという旨のメールを送信しつつ、所在無く汚れた黒板や、掲示板に張り付けられたよれた保健便りや事務案内の輪郭を曖昧に双眸に映して、机に腰掛けたまま、腕を組んだ。そうして扉が開かれるまで、頭を空にしたままに――スライドする扉の音を耳にすれば、ゆったりと落ち着いた挙動で彼女へと視線を移した。驚いたその様子、彼女から自身に向けられる反応を見るのが随分久しぶりな気がして、和んでしまう目元を誤魔化しきれないで、浮かべたのは微かな笑みだったか。同時に喉の奥で締め付けられる感情に再確認させられながら、移動する彼女を横目に、きっと普段と違わない様子で口を開けば、)あぁ、最後に用事を済ませてから戻ろうかと思ってな。(短く言葉を返しながら、彼女の反応を窺えば、流石に忘れた“物”がないことには気付かれただろうか。緊張と呼ぶには微か過ぎる、目眩にも似た遠い感覚。客観視なんて無機質なものでもなく、凪いだ内心は穏やか過ぎる程に、彼女の困惑を目に止めて、告げる言葉はのうのうと口を滑る)―探し物ならないと思うぞ。芳川を此処に呼び出す為に捏ち上げた内容だったからな。(そう告げれば、伝わるだろうか。先程告げた潮江の用事が、彼女に向けられたものだと言うことが。潮江が、此処で彼女を待っていたのだと言うことが。本当にただの親切であれば、直ぐにこの場を後にしていただろう。だから、忘れ物は――強いて言うなれば、彼女ときちんと向き合う、こと―)予算会議が終わる前に、きちんと蹴りを付けておきたいと思ったんだ。このままでいるのは、どうにも心地悪い。(「芳川は違うか?」なんて問い掛けは、答えを想定しておきながら掛けるには酷くずるいものだったかもしれない。それでも、呼び出した理由を告げ、机から腰を上げたなら、鋭さこそないものの射抜くように真っ直ぐと彼女に視線を投げかけて―言いたいのか、聞きたいのか、標となる答えは霞んで見えなかったけど、)

ふふ、新鮮だよね。うちの学園って静けさに縁遠いからなあ…。
芳川菜生(視界の端で、白いカーテンが裾を揺らしている。喧騒の余韻を遠くに残しながら静寂に支配された教室、視線を交わした彼の微かな笑みに、心の裡の葛藤にささくれ立っていた所が優しく撫でつけられる感覚に覆われて。破顔には及ばない眦口元をそっと和らげるだけのものは、用具委員長等に向ける好戦的な意味合いのものとは違って、でも、彼らしいものだと思う。平素通りの口調で用事だと言う相手に、そこから言葉を繋げて会話を広げる事も出来たけれど、そうしなかったのは距離を取ると決めた決意に基づく頑固さに起因するのかもしれない―が、忘れ物がないという間抜けな事態に辿り着いてはそれどころではなくなるのだ。困惑の視線の先で種明かしをした彼に、信じられないとばかりに見開く瞳には動揺が滲む、)…え…、なんでそんなこと、……、(言いかけた声は、先程の彼の言を思い返して噤んだ。―用事を、と言っていた。…ああ、このことだったのか、すとんと得心がいって解決したのも束の間、つまりこの現状では今迄避けてきた―彼と向き合うという―事に正面きって向かい合わなければいけなくなるではないか。焦る心のまま無意識に右足の踵が一歩下がった、のだけれど、―真っ向からの言葉と視線。まっすぐな気質が表れているそれらにここ最近ずっと抱えていた悩みを掴まれた心地で、逡巡の果てに、静かに頷いた。今を逃したら、これから先ずっと修復する機が訪れない事を薄々と感じ取ったのかもしれない。小さく息をつき、先程引いた足で前を踏みしめ彼の席の側の列へと横に歩を進めたなら、縦三つ分離れたその位置、双眸が戸惑いながらも彼を捉えて―)……あのね、…わたし、潮江くんと仲直りしたいって、ずっと思って、た。(仲直りっていうのも少し語弊があるかもしれないけれど、なんて髪をかきあげて笑いつつ。折角彼がお膳立てしてくれたのだから、それに応えるのが礼儀だろうし―なにより、自惚れかもしれないがこうして声を掛けてもらえるだけの価値が彼の中に在るのだと思えたから、それが一番の後押しとなって、気後れしていた芳川の口を開かせてゆく。)スパイとしてはほんと役立たずでね、潮江くんと話してると楽しくて、すぐ任務忘れてばかりで、……新野先生も善法寺くんも優しくって今のままでいいよって言ってくれるから、それに甘えてて…なんか、潮江くんと仲良くなった気でいたみたい、なの。…だから、わたしにとってそれが普通になってて、…―潮江くんが元に戻るって言ったとき、そう思ってたのは自分だけなんだなあって分かっ、て、…すごく、……。(声のトーンに併せて下向いていく視線に気付けば、躊躇を捨てきれない仕草でゆるりと上がった睫毛の合間から瞳が覗く。言わないと伝わらない事を身を持って味わったから、彼に届いて欲しいと、ばかみたいに必死になって自分の胸の中でも纏まっていないことを順繰りに形にしてゆこうと、赤味帯びる頬の色は夕焼けの所為だけではなく、て。)……でもね、後になって、ちゃんと言えばよかったって後悔した。…その、嫌じゃなければこれからも仲良くして欲しいし、もっともっとたくさん潮江くんと話したいの。だから…仲直り、したいです。――わ、わたしの話は以上!(一体何の青春劇を演じているんだろうと我ながら恥ずかしくなって火照る頬を手の甲で冷やしながら、―以上だなんて、ほんとうは一番大事なことには鍵を掛けたまま。怖気づいた…のも一割くらいはあるかもしれないけれど、目下の目標は彼と”元”の関係に戻ることだから、それ以上の望みを平行して一緒に追うなんて器用な真似は出来やしないのだ。「…潮江くんは?」、照れくささと不安とが綯い交ぜになって恐る恐る反応を窺う芳川の耳には、時計の秒針の音と己の早鐘を打つ心臓の音だけが、やけに響く―)

まあ、それはそれで魅力なんだろうがな。退屈する事もないのだし
潮江文次郎(暗い室内に、緩やかに西日が橙を落とし始める。鮮やかに彩度を高めていく世界は、まるで異世界のような特異さで彼女の存在だけをはっきりとさせるように輪郭を捉えていたけど。不思議と整理され尽くしたような、クリアな思考回路で見つめた、彼女の驚きに満ちた瞳の揺らぎに、罪悪感なんてものを感じる思慮深さは捨て払っていたから。この落ち着きが覚悟に依るものだとしたら、潮江の嘘に“何故”と問うた彼女が気が付くまで多くは語らず、揺らいだ瞳が応えてくれるのを待とうか。もし、肯定が返って来ないのならば、そこまでの関係だったということだろう。驕りだと、一蹴してしまえばいい―それだけのことだ。そんな風に燻り始めた不安に首肯が返ってきたのなら、無意識に引き結んでしまっていた口元が、安堵から微かに緩んで、密やかに吐いた息はそれでも肩を微かに下げてしまっただろう。そっとスカートを揺らした彼女との距離は、僅か三歩で詰められそうな程なのに、そうするには、まだ早い。コマ送りのようにも感じ得た自身の一度だけの深い瞬きが明ければ、)―…あぁ。(仲直りしたいと告げる彼女への返答としては、相槌はずれたものだったかもしれないけど、漸く紡がれ始めた彼女の本音を止める無粋さまでは持ち合わせているつもりはなかったし、何よりきっと、潮江自身その先を知りたくて―どこか、期待もしていて。だから必要最低限のそれだけで、後はただ見つめ返すまま。―途切れた言葉の先は紡がれることはなかったけど、自惚れでないならば、それだけの影響力を持って彼女に届いていたのだと―じんわりと浸透していく温もりを手放したくないと思うようになったのは、もういつからか知れなくて、だからこそ、以上と打ち切られた彼女の言葉の到達点に、落胆していたのは気の所為ではなく。けれどそんな彼女らしい慌てた様子の締めに、くつと一度喉が鳴った。何だかそれだけでも満足なような、違う答えを欲するが故に複雑なような、不確かな想いは、彼女の促す声に一掃させられて――、)…そうだな。何から言うべきか…、いや、先ずは誤解のないよう、これからも仲良くして欲しいし、もっともっと沢山話したいのは、こちらも同じだと言っておくか。(彼女の言葉をそのまま借りて紡ぐ音は、自身には不釣合いでむず痒い響きではあったけど、一度失敗しているだけに、どうにも言葉選びに慎重になってしまう。順繰りに説明していくべきだと思いながらも、誤解を招かないように結論から述べるべきだとも思う故に、迷い迷い紡ぐ言葉は、歯切れが悪いと言う程では、なかったけど)……それから、あれは――話す機会が減るだろうなどと、俺の言い方も悪かった。試したと言うと聞こえは悪いが…、自分の考えも告げずに芳川の気持ちを探ろうなんて、虫が良過ぎたと思っているよ。(すまん―浅く頭を下げれば、伸びた影の隙間から、彼女のつま先がオレンジに照らされて、暮れ前独特の光度の強さが揺れる。かろり眩む目を細くしながら、頭を上げてもう一度彼女に視線を戻せば、無意識に刻まれた眉間の皺を解く術もなく、言葉を続けて、)…スパイなんて大層な呼び方はともかく、会計委員長の弱味を探ろうと近付いて来る奴なんて大して珍しいものでもないんだ。そう容易く掴まれる弱味を持っているつもりもねぇしな。だから気にしていなかったというのもあるが、…いつでも問い質せたことを気付いていて何も言わなかったのは、相手がお前だったから…芳川と過ごす時間が、楽しかったからだ。…崩したくないと思っていた。(―けれど、結局崩してしまった決定的な原因は、潮江が選んだ言葉だった。潮江文次郎である前に、今は、“会計委員長だから”と、頑なに崩さない最大の理由があるが故に、明かせない本音は今はもうカウントダウンを始めているけど、その時が来るまでゆっくりと、規則的に細い針を鳴らして確信的な言葉からは遠く、紡いで、―緊張などしていないと思っていた心音も、気付かぬ内に速さを増していた。それでも心地よい速さで、頭の奥を穏やかに揺らす。)…だから、スパイなんて理由が必要ないなら、欲を出しても構わないか。(肝心な一言へと触れる、数センチ遠い言葉。覚悟は決まっていた。躊躇も必要ない。それでも明確な言葉を口にしないのは、潮江なりの、分かり難いプライドの為。―一度短く振り返った時計の分針が、境界線に届くまで後僅か――コツ、コツ、刻一刻と赤を運び始める世界で、向き合った彼女の髪が映した夕焼けの影を目に焼き付かせれば、答えを先送りにする卑怯な問い掛けへ、彼女が反応を示してくれればいいと、願いながら―)

うん、日直の時も、日誌に書く内容に困らないから助かっちゃう。
芳川菜生(言葉少なな相槌は、発した本人が予想もしない威力で芳川に安堵を与えたよう。少しだけ肩の荷が下りるのを感じながら、目を合わせもしなかった日々を含めたこれまでの自身の感情を言葉にして紡ぐのは思った以上に難しくて、―彼といて感じた様々な想いは、すべて形に出来るほど簡単で易しいものではないと思い知る。熱帯びた顔を冷ます傍ら、低く鳴った彼の喉には気恥ずかしい心中で視線が下がってしまうのだけれど、相手が口火を切れば次は此方が聞き手の番。臆さずに真っ向から受け止めようと上げた顔は、直後に緩々じわじわと情けなくへたれていって――嬉しい。涙腺が緩んでしまいそうに、嬉しい。それだけで全てが報われた気になるなんて現金さで、もしや夢ではないかと一瞬逃避しかけた思考は続く声に意識を引き戻される。喜色の滲む顔色は話に水を差さないよう相槌の代わりにいちいち頷いて、下がった頭には目を剥き、髪が舞うほどに首を左右へと振るのだ、)え、や、それは潮江くんが悪いんじゃ…!…、……わたしも、自分のことでいっぱいいっぱいで考えなしな発言したから、―ごめんなさい。(同じように頭を下げたのは、けじめを付ける為でもあった。改めて話を照らし合わせると如何に誤解していたかを痛感して、手前勝手に言い捨てて逃げた己に羞恥が煽られると同時に、果たして相手が彼でなければ此処まで拗れただろうか、と。他の誰に同じ台詞を言われても、それが本気か裏に何かを含ませてのものかを見抜ける位には鈍くないし、逃げ出す事無く冗談と捉えて話を持っていく余裕だってあった筈。それを踏まえれば、彼に非などない―真意を伏せて探ろうとするのが悪かったなら、矢張り全面的にスパイとして近付いた芳川が悪い事になる道理だ―けれど、最後の最後で否定を飲み込んだのは彼の意まで否定したくはなかったから。この件についてはお互いさまだと、床に落ちる暗い影から彼へと視線を戻して笑みを一つ、――或る目的を持って近付いた事が知れていたのは、納得のいく理由だった。スパイの自覚自体薄かったため彼の視点で現状を見ようとした事はないけれど、確かにそういう輩は珍しくもないだろうし、そんな隙を見せるほど生温い会計委員長では、ない。明かされる言葉達は静かに浸透していって、目を灼く夕日よりも眩く、爪弾く感覚で、芳川の胸を貫いては揺さぶる。嬉しい気持ちは勿論ある、のに、予想だにしていなかった過ぎた内容には動揺の方が勝って、眉尻が落ちてゆき―遠回りした言い回しの意味を投げ掛けられる頃には、スカートの横できゅうと強く拳を握っていた。窓の外でざざあと風が一陣走り、時計の秒針の音すら掻き消す、強く波打つ鼓動。…誤解されそうな事を言う、と思った。此方に都合よく解釈できそうな問いかけに胸の裡が荒ぶっているのを自覚して、そしてその渾然とした動揺は、向かい合う彼の真摯さから覚悟を決めて発された物だと察したが故のものだと、気付いて。逃げられないのか、逃げたくないのか、唇の合間からこぼれた小さな息は情けない程に震えていても、戸惑いに彷徨っていたまなざしを遂には彼へと当てよう。こうして対峙する彼は、六年間同じクラスだったのに必要最低限しか話さないクラスメイトで、それがよく話す厳しくも優しいひと というあたたかで親しげな認識に変わり、今はとても、とても―。―窓一面にこぼれ落ちて射し込む茜色満ちる室内、足元では伸びる己の影が後僅かに彼に届かない距離を描いているのを、踏み出した一歩が打ち破った。三席空いた距離を一つ、また一つと進む足で縮めて、一歩分を残して立ち止まる彼の前。目の下の隈も眦上がっている瞳も、直球じゃなくても真っ直ぐな先程の言も、全部が彼らしくて――恋、しい。思った途端に顔から耳、手足の爪先まで淡く色づいて、震える睫毛を押し開けばその瞳一杯に映る姿、逸らさないのは覚悟の証。)……芳川菜生は、潮江文次郎くんがだいすきです。努力家なところとか、自分に厳しいところとか、地獄の会計委員長だなんて後輩に怖がられてるところとか、意外に紳士なところとか、食満くんと喧嘩して怪我ばかりするちょっと困ったところとか、……ほんとはすごく優しいところとか、挙げきれないたくさんが、とてもすき。…だから、―嬉しいから、嘘でもだめ、なんて言えないんだよ、(恋する女の子は盲目なの、なんて。熟れすぎた赤味を曝しながらこんな時ですら緩く笑う声が、静かな空気を裂いて響く鐘の音に重なった――)

日誌が回ってきた時に目を通して驚く程にな。皆よく飽きんものだ
潮江文次郎(――ちぐはぐなことばたちが、ゆっくり、隙間を埋めるように、降り積もっていく。塞き止めていた気持ちに通路が与えられれば、後はもう進むだけで―不思議と不安を感じなかったのは、矢張り重ねてきた日々が、あまりにもやさしく、暖かいものだったから。彼女の眼差しのように、纏われる柔軟な空気のように、疑うことすら忘れてしまいそうな日々は、確かに、切欠なんて些細なものでしかなかったのだと―言葉にしてみて、改めて思う。今は、どうしてあの時初めから信じた言葉を投げ掛けなかったのかと後悔を抱くよりも、もっと、数メートル先の距離がもどかしくなるほどの、焦がれる程の恋情に、支配されて。もう、目蓋の裏にまで焼き付いて離れないだろう程に見つめた彼女の一挙一動で、答えは、聞かなくとも伝わってくる、気がした。自惚れだろうか、なんて考えは微かな疑問程度で、息吐く微笑に添って消えていくだろう。そうして、告げた謝罪に慌てて頭が下げられれば、一瞬眉を寄せたけど、そんな風に互いに謝罪を述べ合う様子に、くすぐったさを感じて―上げた視線が交われば、こちらも小さく笑うのか。喧嘩をした時はお互いにごめんなさい、なんて小さな子どもではないけど、それに似た甘やかさで、喉の奥でずっと引っかかっていた後悔が、許されたのだと思えたから。)…お互い、どうにも格好付かんな。(これで件の蟠りについては解決だとでも言うように、否定しかけた謝罪を呑み込んで、やれやれと嘆息しよう。それでも、広がる安堵に緩む頬は引き結びがちに歪んで、心地良く突っ掛かりを解いていく。止め処なく溢れ出そうな言葉を止めるのは、理性という名の頑固な虚栄で。遠回り、遠回り―けれど、その内容は、嘘偽りなく、本音を―潮江の抱く感情を告げているも同然だっただろう。迷いなく問い掛けて、唾を嚥下した音が厭に鼓膜に響いたけど、頭にまで響く心音に震わされて、神経が研ぎ澄まされる程に意識しているのだと理解して。――イエスか、ノーか。それだけ聞ければ良かった筈の問い掛けは、大きな大きな衝撃を持って、静かに投下された。彼女の影が被さり、背にした陽光が幻想的に彼女の陰影を明確にしていたから、―霞んで見逃さないように、慎重に、見つめていた先だった。彼女の唇が紡ぐその言葉を聴いた瞬間、とつ、と胸に波紋を広げる感情は、身体中に熱を持たせる、欣喜でしかなく。期待以上の返答に目を見張り、息が止まる。同時に湧いた微かな悔しさは、負けず嫌いな潮江らしい、先越されてしまったか、なんて些細なことに対するもので、―忘れていた呼吸を、取り戻すように息を吸い込んだのは、ついに予算会議の終了を知らせる鐘が、二人だけの空間にも、確かに届いたから。鐘の音を背景に、彼女に向かってふっと力の抜けた笑みを見せたなら、「有難う、」なんて隠し切れない歓喜の滲んだ声で、やわらかに降らす。)――…予算会議も終いだ。もう意義もそれを却下することも通らん。…だからここから先は、委員会は関係ない俺個人の言葉だ。―…俺も、芳川を慕っているよ。どうしようもない位に。唯のクラスメイトでは価値がないんだ。友人ではなく、恋人がいいと思うのは、…独り善がりの我が儘ではないのだろう?(―ようやく、言えた。紡げた、本心。弱味になりそうなものは排除して、自身の感情すら公私できっぱりと分け隔てて―待ち侘びた境界線を飛び越えて、彼女の告白も受け止めることが出来れば、口にしたのは最後の望み。愛しい告白を前に、愚問だと笑われたって可笑しくはない問いだったけど、きちんと、言葉にしておきたくて。浮かぶのは、笑みのようにも、口の端を引き結んでいるだけにも見える、曖昧な表情。空いた、一歩分の距離で、緩慢に手の平を差し出した。)これからも、側にいてくれないか。…困ったことに、もう芳川なしの日常は考えられなくなっているんだ。隣で笑っていて欲しい。頼りないところも、気を遣いすぎるところも、お節介も、心配性も、…芳川菜生という存在の全てが、心地良いんだ。(苦笑染みた笑みはどこか照れくさそうなものだったけど、真っ直ぐ彼女を映す瞳は逸らされることも、揺らぐこともなくて、)―芳川。俺は、お前と共に歩む時間が欲しい。(紡いだ言葉は、穏やかに、落ちていく。力の抜けた笑みはいつか浮かべたように幼いものではなくて、柔らかく包み込むような、大人びたそれで。穏やかに、おだやかに。浮かしたままの手の平で、彼女の答えを、静かに待とう。とくとくと響く胸元に朱に染まる光が差し込んで―通り過ぎた眩さに、目を細めたのは、一瞬――、)

ネタにあふれてるよねえ。……携帯小説のネタも困らない、ね?
芳川菜生(張り詰めていた空気を緩ませて頭を下げ合うなんて、確かに傍目から見たら間の抜けた光景なのかもしれなくて。交差した視線の中、肩を竦めてくすぐったそうに笑んだ芳川の表情に滲む安堵は、嘗てのように他愛無い会話で和んでいた切っ掛けを取り戻せたような気がしたから、そして短な言葉は此方の謝罪を受け止めて許容してくれた証だと解したからだった。絡まった大きな毛糸玉が、ころり、相手が一言を落とすたびに転がって、葛藤や不安も一緒にして解けてゆく。そして解れた先から熱が伝導して―またひとつ、彼をすきになる。際限がなくて底の見えない思慕は、だからこそ言葉という形を取って上手く伝わるよう纏めるのは難しかったのだけれど、定まって動かない相手の熱視線に浮かされたかのように途切れながらも口は止まらなかった。予算会議終了間際のメールを見るまであれだけ悩んでいた影が全てなくなっている訳ではないものの、己の裡に抱えて秘めているには大きく溢れすぎているものを行き場なく留めるのもまた、至難であったという事だ。とは言え、伝え終えたなら次は反応に身構えるべく緩い表情が否応に引き締まって――終了を告げる鐘に瞬間、意識を持っていかれた。予算獲得の為に彼の弱みを調査し始めた、或る意味原点とも言える日々に終止符を打った重厚な音、それに続いてこぼれた声音は、聞き間違えでなければ感謝を形作っていて、―もう、鐘の余韻や時計の秒針なんて意識の外だ。一音、また一音と届く声が綴る告白に、知らずうち視界が滲む。喧しい程に早鐘を打つ心臓の所為で呼吸がやけに重たくて、彼を見ていたい胸中と裏腹に潤むばかりの目元を手の甲で拭いながら、疑問を取った最後の台詞には返答の代わりに何度も縦に首を振った。―ほんとうは、いつだって”彼の特別”が欲しくて、欲しくて。他の女子と同じではなんだか切なくて、他の男子と同じではない彼にとても焦がれていた。委員とかクラスメイトとか、そういう余計な肩書きを取り払った本音は常に望んでいたもの――望んだ以上の甘さで芳川を蕩けさせるから、一歩の距離を乗り越えて差し出された掌へと自身の手を伸ばす事に躊躇いは、なく。)……なんだか、嬉しくてとけちゃいそう……、(触れ合った指先が跳ねて、止まった動き。それからようやっと重なった掌は、色事に疎い彼女の、精一杯の承諾のスキンシップだ―)側に、いるよ。…自分では結構頼れる先輩のつもりなんだけど、潮江くんって無茶しがちだから心配も尽きない気がするんだけど…、……でも、きっと、こうして潮江くんが隣にいれば自然に笑えちゃうんだろうなあ。(そうしてこぼした吐息は言葉通りに微笑に染まり、先程の涙の余韻と自分から彼に触れた照れ臭さが相俟って、眦から頬に掛けては慣れない熱に支配される。彼の面に浮かぶ表情にまたひとつ左胸のところで動悸がして、少年と言うよりも大人のそれに近い仕草で穏やかに広がる綻びに、以前は理想の父だか兄だかの面影に慕わしく思ったのだろうけれど、今は唯、眩しくこそばゆい心中で受け入れるばかりだ。嬉しい、とか、喜んで、とか。在り来たりな応答が浮かんでは物足りないと却下されて、結局)――…ふ、不束者ではありますが、末永くよろしくお願いします。(なんて、若干気の抜ける返事になってしまったのは熱が回りすぎて変に考えすぎた所為、という事にしておこう。見上げた彼の瞳に自分だけが映っているのがとても―しあわせ、で、同時に気恥ずかしさで伏せった眼差しを誤魔化すよう、重ねた手はそのままに言葉と共に頭を下げた。巡る日常、陽が昇って下りるのは変わらないのに、切り離された錯覚すら覚える二人きりの教室を包む茜色はとても優しくて――彼と見るものはなんだって色を変えて、世界の綺麗さを、教えてくれるのだ。)

っ、だから書かんと…、はぁ、俺より芳川の日常の方が気になる。
潮江文次郎(最早何が一番の要因かも解らないくらいに、どこまでも愛しさが募って、まるで窓の外に広がる夕焼けのように赤く赤く鮮やかに染め上げた内心はぼんやりと燃え続けている。言葉にして、それでは足りないとすら思える感情も、彼女の反応を見れば、それでも伝わっている気がして。触れ合った指先にまた一つ熱が灯る。指先から身体中を巡る鼓動が意識を浮かせそうになるような――「とけちゃいそう」と紡いだ彼女の言葉が、胸にしっくりと収まることに、また一つ胸が鳴って。可愛いと―愛しいと感じたままに言葉を紡ぐには、胸の奥で生じるばかりで上手く言葉にはならなかったけれど、困ったように下げられた眉が、その嬉しさを雄弁に語っていただろう。確かな返事に耳を澄ませて、目を伏しがちに最後まで聞き届ければ、薄い唇から吐息の笑みが小さく零れ、)っはは、頼りになるとも思っているさ。―ああ、だから。見守っていてくれ。芳川の笑顔は、芳川が思っている以上に力がある。(手の平の熱が、あつい。あつい。けれどその細い指先が、欲だけを呑み込んで伝える言葉を和らげてくれる。彼女のそんな、透明のヴェールのようなやさしさで包まれながら、口にした願いに応えてくれる彼女の声音は、鼓膜を震わせて身体の芯まで届く。甘い甘い愛しさが、上手く言葉にならなくて、喉の奥で渦巻いたままだったけど―すうと、ひとつ息を吸い込んで、空気の冷たさが、喉を、身体の熱を、冷ます。)――芳川が望む限り、ずっと。(無駄な力は抜き去って、ただ穏やかに笑みを零す。それが当然であるかのように、繋いだ手の平の温もりを引いて、下がっていた彼女の頭に、添えるようにもう片方の手を触れれば、誓いのようなキスを、額に落とそう。もっと側に欲しくなるのと同じくらいに、大切に大切に扱いたくなるなんて、相反した考えが、今は、たったそれだけの行為に止めさせてしまうけど。徐々に影を色濃くしていく夕日を前に、それはどこか神秘的な、儀式のようでもあっただろうか。――紅は、暫らく瞳の奥に鮮明に残り続けるだろう。胸に灯った炎のように、彼女への気持ちを焼ききらないよう穏やかな青を奥に眠らせながら、これからも、彼女を映していこう。手の中にあるのは、きっと。何よりも何よりも、うつくしいもの――、)


( back )