綻 び は 突 然 に



Monjirou Shioe & Nako Yoshikawa



(食堂の中からはまだ人気を感じつつ、自販機前で一人、)

潮江文次郎(結局今日は気が付いたら夜が明けていた―今すぐ泥のように眠りたい気もするし、このまま寝ずとも生きて行ける気もする。恐らく後者は錯覚でしかなく、授業中こそ意識は飛ばさないものの、少し目が霞んできているのがその証拠なのだろうか。けれど作業は尽きないし、限界だとは感じないのだから問題ない―まだ欠伸が漏れる度合いだから、深呼吸でもして、後はコーヒーでもあれば保てるだろう。そんな考えのまま、教室を抜けて食堂側の自販機を目指した。きっと親しい者であっても潮江の些細な変化など気付くに難い程度の見様によってはふらついて見える足取りで、――数台並んだ自販機の、一番端の型、下段の左から二番目のボタンを押せば、買い慣れたブラックコーヒーが、ごとりと取り出し口に転がった。節電の為かまたピッと小さく音を響かせて浅い眠りに付く自販機の光すら沁みた気がして、眠気を飛ばす為か目の霞みを誤魔化す為かやや分からなくなりつつある、目頭を押さえてきつく目を閉じるその行為をしてから、身を屈めて取り出し口に手を伸ばす。手の平にじんわり熱を移す缶を取り出せば、直ぐに熱の溜まる手に痛みが宿る前に反対の手に転がすように持ち替えて、不意に零れたのは溜息か。近頃妙に疲れる気がするのは、睡眠を削っていれば当然なのだろうけど、そもそも身が入り切っていない所に原因があるようにも思う。ある程度は、慣れで集中を保たせているけど、悩み多きは学生の特権なんて割り切れる程、今の状況に焦りを感じないでもなく。内心はっきりとしない感情に気持ち悪さを覚えれば、朝のサラリーマン宛らに喉を焼く缶コーヒーを一気に煽って――、)、ごほっ、げほ…!(思いの外熱かった所為か、途中で詰まった水分に咳き込んで―冷たい空気をを吸い込んで落ち着けば、格好悪さに溜息が、また一つ。)



ブラックコーヒーって見るからに苦々しいけど…、…おいしい?

芳川菜生(―あ。そんな声が上がったのは、教科書を仕舞おうと鞄を開けて直ぐのこと。朝に比べて妙に余裕のある中身に首を傾いで、見当たらない水筒、もしや学食に置き忘れたのではないかと可能性が閃くのと立ち上がるのは同時だった。いつも昼食を一緒にする友人が今日は学食で食べるというから、芳川も弁当と水筒―今時古いのかもしれないけれど、保温性に優れているので冬場あたたかい飲み物を入れるのに重宝している―を持っていった帰り道、よくよく思い返せば手には弁当箱一つしかなくて、その時点で疑いは確定となった。慌てて駆け込んだ目的地でおばちゃんに聞くや、ああ後で届けに行こうかと思ってたんだよ、なんてしっかり名前の記された桃色の水筒を渡されて、有難いやら情けないやらで何度も頭を下げて安堵に胸を撫で下ろすのだ。乱れた髪を手櫛で簡素に整えながら廊下に出た途端、ふるっと竦む肩。急いでいた行きでは気付かなかった寒さと、それから――自販機の前で見かけた姿に、彼女の足は意識するよりも先に進行方向を変えていた。今日は朝から眠そうなのが気に掛かっていて、けれどあの隈でそう見えるだけなのかもしれないし云々、そんな出口のない葛藤を抱いて話しかけるにかけられなかったのだけれど―ええい普通に声をかけよう!、と結論をくだし意気込んで上げた片手は、突如聞こえた咽る声に行き場をなくしてしまい、)…っだ、だいじょうぶ?(狼狽して彼の正面に回ることで相手を驚かせるかもしれない、相手にとって良いとは言い難いタイミングだったかもしれないとまでは頭が咄嗟に働かなくて、体調不良による咳ではなくその手にある缶が原因だと察すれば一先ずは息をつこうと。―こうして正面から見上げるその顔は、”かもしれない”と付く程度の微かな違和感で以って曇っている、よう、な。「ごめんね、」と断りを入れてから背伸びして伸ばした掌をぺたり、彼の額にくっ付けて、熱がない事を確認したなら、)あのね、もしかしたら潮江くん、ちょっと元気ない…?時期が時期だし忙しくてあんまり休めてないのかなあ、って……あ、眠る前にあたたかい飲み物飲むと少しだけ眠りやすくなるんだよ、(ブラックコーヒーはだめだけど、試してみたらどうかな。緩く笑って付け足した暢気な声の裏で、なんでこんなに彼を気にしているの、と囁く自分に蓋をして平素のお節介が口をついて出て―直後、己の顔を真っ青にさせる放送があると知っていたのなら声を掛けはしなかっただろうに、もう、遅い―)



(学園長の、ありがたーくない放送)

ザ――…

(小さくノイズが聞こえたかと思えば、言い争っているのだろう声は、殊更大きく響いた)

何じゃ!スパイ活動くらいどの委員会もみんなやっておるじゃろ!

(驚く顧問達の声は誰が聞いても肯定であっただろう)
(そして駆け付けた放送を知らせる声によって、乱暴に放送の電源は切られた――)

…ブッ――



こくや香りはそのままの方が味わい深いものだと思うが。苦手か?

潮江文次郎(唐突に喉の奥に詰まった水分に咳き込めば、直後姿を現した彼女に更に驚いて咳が止められずに―)芳っ…、っほ、ごほ、…!(何も、今会わずとも、なんて内心独りごちてしまうのは、当然の主張だと思いたいところだけど。小さな咳を引きずりつつ、片手を上げて大丈夫だと示せば、思わず片眉が、下がる。)…本当に、芳川には妙なところばかり見られているな…、(やれやれと溜息を吐きつつ、辟易していれば伸びた、彼女の指先。寒空の下薄着で少し冷えてきたとしても、眠気のお蔭で常時より高い体温を保つ肌に、その掌は心地よくて。反射に瞑目して浮かんだ驚きも、生じる安堵感に掻き消え、されるがままに彼女に視線を落としてしまおうか。この手が離れなければ、なんて浮かんだ考えは深く考えないようにして頭の端に追いやってから、)…余り外に出していないつもりだったんだがな…。そんなに疲れているように見えるか?(遠回しの返答は、それでも確かな肯定となっているだろうか。不眠という訳ではなく、そもそも横になることも考えず時間が過ぎているのだから、彼女のアドバイスには微かに和まされつつ、「今度ゆっくり休みたい時にでも試してみるよ、」なんて先延ばしの返答で暈して――そうして唐突な流れで始まったノイズは澄んだ空気の中よく響き渡って―彼女の顔色の変化が、何よりも伝わりやすい解答だったろうか。クラスメイトでありながら唐突に多くなった関わりの理由―自身が予算会議に於いて何処よりも権限がある―と彼は思っている―会計委員会の、長であるという、それだけで説明が付いてしまう。接点を持ちたがるのは、弱みを探る為。そんなもの、珍しいことではない。だから―、)…あの人は本当に―、学園で騒ぎを起こす天才だな…。はは、しかしスパイだなどと珍妙なことを考え付くのは安藤先生くらいのものだと思っていたが、どこも同じとは。(そんな手間を掛けずとも会計委員は無敵だと自負している潮江にとって、内も外も心配に値する存在ではなくて。彼女がスパイである―それがどうしたと言うように笑い飛ばしてしまいながらも、内心落ち着かないのはきっと、元通りの線引きが、見えてしまうから。彼女から与えられた言葉がスパイ活動に依る上辺だけの物かと考えてみれば、近頃の会話だけでなく元々の認識からして、そんなに器用な相手には思えない。だと言うのに、思いの外動揺を覚えている内心に気付けば、確証に変わりつつあった気持ちを、思い知る、)―…これで芳川と話す機会も、減るのだろうな。…いや、元に戻るだけか。(ぽつりと漏らした呟きはその現実を残念だと嘆くように静かに。微かに笑みさえ浮かべて零れた本音は、場にそぐわないのであろう自覚もあったのだけど、それでも抱いた感情を揉み消す術も持たなくて―そんな自身に内心呆れながら、これからの彼女を窺うように、反応を見るべく視線を移して、)



お子様味覚じゃないけど、少し甘味があると飲みやすい、かなあ。

芳川菜生(悪化する咳に目を剥いて、水筒を持っている手と持っていない手を行き場なく振って狼狽を露わにしつつ、大丈夫だとジェスチャーが来たなら一先ずは落ち着こうと。こぼれた溜息につい頬が綻んでしまったのは、失礼な話かもしれないのだけれど。)ふふ、わたしはなんだか新鮮だな。潮江くんっていつも、こう、きりっとしてて隙がない感じだから。(眉間の皺を作って精一杯貫禄のある顔つきを再現しようとしても、緩い人相では高が知れるものだ。紛いものの厳めしさも持続せずとけるように笑顔に戻ったなら、彼の額に触れた指、灯る熱に気付かないまま、それでも無意識下で逃さないようにと握り締める。―否定しない相手に因って疑惑が事実となった事に、最早慣れた心配を抱きつつ眉尻が下がるのを感じながら「…すこしだけ」、頼りなげに声が出た。件の夜以来、委員会で遅くなると帰路を共にさせてもらい、同じ方向の会計委員数名も一緒の賑やかな帰り道を毎回楽しませてもらっているから、予算会議の迫った今は忙しいのだろうと完結させて――学園長が投下した爆弾を真正面から食らい、指の先から脳の隅々までさっと冷えゆくのに混乱しきる中、他愛ない事だと言わんばかりの笑い声に追い討ちを掛けられる。会計も同じ事をしていると予想だにしていなかった驚愕はさて置き、色の引いた顔で思わず振り仰ぎ、そして、悟る。このスパイ行為に彼は気付いていたのだ、と。鎧を剥がれたような感覚で詰めていた息が力なく抜けて、直後の鼓膜を震わせる”とどめ”に、耐え難い衝撃を感じずにはいられなかった。)………、(―なんで減る必要があるの? 喉を駆け上がってきた声を寸前で飲み込んだのは、それが相手の望みではないかと考えたくない選択肢に気付いたが故。嘆いているふうに聞こえるのも、願望がフィルタを掛けているのかもしれない。どんなに親しくなれたとしても所詮彼は自分ではないのだから、思考そのままそっくり読み取るなんて口に出さない限りは途方もない話で―逆もまた、然り。弱みを探るという隠し事があったから急接近した彼との距離感に会話上触れる事はなかったけれど、楽しいこと嬉しいこと居心地がよいこと、全部伝わっていると思っていたのは驕りでしかなかったのだ。)……、や、だな、そんな他人行儀、クラスメイトじゃない!席替えで隣になったりグループ学習で一緒の班になるかもしれないし、ほら、全然ふつうに話せる距離だよ、(言いながら、そんな切っ掛けでもなければ話しかけにも行けない逆戻りの関係に竦む胸を叱咤して、―笑え、笑え、笑え。必死で顔面の筋肉に命令を送り、今迄意識しないでどうやって笑っていたのかも判然とせずに外気に赤らんだ面を緩ませる。巧く笑顔になっている事を願って、「先に戻ってるね」とやや不自然に切り出すと同時に返した踵は、数歩進んだ先で止まった。振り返って彼の顔を見るにはこんなにも勇気が要って、)…スパイは納得してやったことだけど、だからって潮江くんを煩わせていい道理はなかったから――ごめんね、……、仲良くなれて嬉しかったのはほんとだから、ありがとう。(細めた瞳から、胸を掻き乱す激情が溢れて、しまいそう。努めて平静の様子を装い、口を挟む隙を与えないで早足でその場を去った芳川は教室とは反対の道へと曲がった途端、緊張が切れてしゃがみ込む。―委員の為に力になると意気込んでも、彼と話すと決まって任務を忘れる役立たずのスパイだった。顧問は寛容にそんな自分の好きにやらせてくれていて、だから、…一緒にいたいといつからか秘めていた想いは彼女自身の本音だ。任務に託けてそんな事を浅ましく抱いていたのを遂に自覚すると、伏せた睫毛からしずくが零れて、羞恥と後悔に熱くなった頬を流れてゆく。らしくなくても今は笑えなくて、辛くて、遠くで本鈴を聞きながら皆勤の学生生活で初めてサボって――平素の芳川菜生に戻るまで、ひとしずくの涙だけで声なく、泣いた。)



甘過ぎてもしつこくなるが、薄めた方が胃の負担も少なそうだしな

潮江文次郎(何とか呼吸を落ち着けて、ちらと視界の端に捉えた彼女の綻んだ口元に微かな居心地の悪さを覚えながら、それが友人相手であれば感じなかっただろう自覚も共に視線をずらせば、)買い被りだろう。…まあそう見えているなら悪い気はしないが。―…ふ、芳川には似合わんな。(吐息のような笑みを零して、珍しい彼女の顔付きに対して「笑っている方がらしいぞ、」なんて、すぐに溶けた表情に内心浸透する穏やかさを口の端に乗せて。細い指先を伝って華奢な腕を視線がなぞる。一歩前に出れば吐息の掛かりそうな距離だというのに、それが極自然に行われたものだから、その距離に気付いても緊張が浮かぶ事もなく、伸ばしそうになった指先だけ小さく握り込んだのは潮江だけの秘密として。心配を含んだ彼女の声に「…見破られるとは俺も精進が足りんな、」と返すのは反省しているのかと疑問も浮かびそうなものだけど。それでも咎める言葉が続かないことには彼女が理解してくれているのだろうなんて甘えが生じて。積み重なっている日々が、互いの距離を自然なものにしているのだとは、思っていたけど――もし。もしもスパイ活動が明かされたことによって、彼女が潮江の元へ来る理由がないと、判断するのであれば―内心浮き彫りになる不安は、ただのクラスメイトという確定的な距離に対して、スパイという急激な変化を受け入れるには慎重にならざるを得なくて。それが立場上、なんていい訳でしかないけど。だから、潮江は気にしていないと遠回しに伝えたつもりで。スパイに対して、疚しい立場であるならば彼女のはずだから。それが何てことないものだと判断されるなら―どちらがいいかなんて、潮江の中では答えは出ていて。彼女の反応で探ろうなんて責任転嫁もいい所だろうけど。――震える声は、潮江にまた、眉間の皺を濃くさせる。そうじゃない。言いたいのは。伝わっていると思い上がっていたのは潮江も同じ。それでもスパイという理由が彼女から取り払われた今、まだ、彼女が共に笑んでくれるのかと―今まで以上に、歩み寄っても許されるのかと。浮かんでしまった不安はらしくもなく拭えなくて。それでも彼女の紡ぐ声に、浮かぶのは不安ではなく、罪悪感―、)……芳川、俺はだから―、(伝えなくてはいけない。今を逃してはいけない。そう思うのに―意識の伴わない彼女の笑みに言葉が喉の奥で詰まって、切り出された別れに遮られればタイミングを失って―外気が喉の奥に張り付いて気持ち悪い。違うと一言告げるだけが、こんなにも難しいことだったかと冷静な頭で巡らせて、それでいい訳がないと叱咤して背中を押すのに、立ち止まった彼女に、息を、呑む。)――芳川!待…っ!……―、(伸ばし掛けた手が、虚しく空を切る。走り去った彼女を、追いかけたいのに、追いかけてはいけない気がして。)…煩わされているなんて思ったことは、一度もねぇぞ。(小さく零れる。吐息のような静かな本音。最後に見えた彼女の表情が、頭の中で酷く揺らいで、募る後悔。穏やかな穏やかな、揺り篭のような温もりが、離れ去った虚無感と、崩れていく衝撃と。そんなつもりはなかった、なんて今更言ったところで、彼女は、)ガーーーッ!!くそっ…!(浮かんだ空白を打ち破るように吼えれば、握った缶が、めこ、と歪んで。苛立ちを露に空いた手で頭を掻いた。伝わらなかったことよりも、彼女にあんな表情をさせてしまった自身が赦せなくて。――ガンッ!酷く、鈍い音が、冷えた空気を伝って辺りに響き渡る。自販機に屋根を作る鉄の柱が、歪んで、潮江自身も額を赤くして――それでも治まらない苛立ちの、中。ふと思い出したのは、冷たい鉄の柱に打ち付けた額に、触れた指先。縋るように手の平が追って、我に返る意識は、厭に静かで、)……期待させるな、バカタレ。お前はスパイなんだろう。(掠れて響く虚ろな声に「否、違うな…、」と、すぐに頭を振れば、浅く、息吐く、)バカタレは俺だ。忌々しい。(苦く毒づいて、ゆったりと柱から離れれば、聞こえてきた本鈴に遠くスピーカーを、見つめて。遅刻だというのに焦った様子を見せることなく、その場を離れようか―手の中で潰れた缶を、ゴミ箱に放り投げて――無機質な乾いた音が空洞に響いて、厭に癇に障るそれは、暫らく耳鳴りのように遠く、小さく、耳に残った―、)


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