立花仙蔵と小野原夏帆 

(弾んだ息を整える間も惜しんで、呼んだ名が廊下に響く―)
小野原夏帆(予算会議がこうして始まるまでの、あの日からの数日間。相手を視界に入れてしまうたびに慌てて意識を逸らしていたような具合だから、不器用ながらも相手を避けていたと言うのは当然のように分かり易かっただろうか。しかしそんな小野原は今、逆に、避けていたはずの相手を探すために、全速力とは言わずともそれなりの勢いで廊下を駆け抜けている。途中、廊下を踏んだらおでこに板が跳ねあがってきたり、救急箱を持った生徒とぶつかったりとしてしまっていた所為で、屋上で後輩と言葉を交わしてからすぐに探していると言うのに、結果は伴わなず時間ばかりが過ぎていく。素直でない後輩のお陰で気付けた何かを、言わなくちゃ、いけないのに。ちらり見上げた廊下の時計の針の位置は見なかったふりをして、壁に手を添えての急カーブ。曲がってから右、左と確認すれば―、見つけた。後姿の方が見慣れた様に感じるのは、すれ違った後に振り返る様な、移動の時に見かける様な、そんな距離をとっていた所為かもしれない。弾む息に揃えて揺れる髪の毛が肩をすべり落ちる一瞬の沈黙の後、堪え切れない様に零れるのは、久々に紡ぐ6音、)―…、立花くん!(いつもに増して騒がしいその校内でどれ程正確に音が届くかは分からないけれど、返事を待たずに足音を響かせて駆け寄る。近づくにつれて速度を落として、結局立ち止まったのは、パーソナルスペースの狭い小野原にしては少し距離を置いた位置。前までなら取らなかったその一歩分の距離を置いたのは無意識に。浮かべる笑みは少し緊張気味ではあったが、普段通りの緩いもので。)、ひさ しぶり!だね、…ええと…。………き、聞いてほし、事が あるんだ…けど、(大丈夫かな、と続く言葉は音にせずに、そうっと背面のスカートに手を添えてよれてもいない裾を正しながら、反応をうかがう様に視線を持ち上げる。勢いに任せて来た―は良いものの、その後の事を考えない行動は今になって打つ手が分からずに。もしかしたら、今さら、なんて思われていないだろうかと、対面して漸くに色々な可能性が浮かんでくる。早まったかも知れない、なんて思うのはらしく無いのかもしれないけれど、徐々に濃くなる瞳の不安の色は隠れる事無く、ふるり揺れる唇を噛みしめた。)

これが最後の予算会議と思うと、少し惜しいな。楽しめたか?
立花仙蔵(中庭から離れ、校舎に入るまでに何戦か交えて、例年通り他委員の戦力を削ぐのは事務的ですらあったかもしれない。勿論、予算を勝ち取るのは立花にとっても重要な事だったけれど―罠に相手が嵌まるか否か、ふとした時にどうしても意識は其方へと行ってしまう。罠は、学園長の放送という形で小槌が振り下ろされたあの日、彼女から自分に通じる道を言葉で一つ作っただけのもの。言い換えれば、なんらかの意思を持って相手から接してこない限り立花は今後一切彼女に関わらないと仄めかした宣言、が其れだった。ああ言えば、卒業前に必ず来るだろうと確信しての事。このまま放置しておけるほど人間関係に疎かな者ではない筈で―ただ、どんな答えを引っさげてくるのか こればかりは断言出来なくて、色々な意味で人から懐かれている彼女を放置するのにらしくもなく少し危機感を覚えていたりするのは、露骨に視線を逸らされていた所為なのかもしれない。――故に人気の少ない5棟の2階、各教科の教材室の前を当てもなく歩いている最中に呼び止められて、隙を見せない彼が一瞬の空白を抱いたのは声の主が件の人物だったからこそ、だ。止まった歩、踵を返して振り向く。いつもの、とは言い難いほんの少しの差で強張っている事に気付く程度には、”普段の小野原夏帆”にすっかり見慣れているからか、)ああ、久し振り、…なんて同じ学校内にいて言うのも変な感じだが。―嫌だ、と言ったら引くのか?(一歩の距離を縮める気はなく、どこか試す物言いは二人の関係に亀裂が生じたあの日と似ていて。―来るなら覚悟を決めて、そう告げた筈。相手の決意が如何程か確かめるように、けれどここまで来た獲物を逃がすつもりも、ない。浮かべた微笑みは愛想の為ではなく、まるい瞳にちらちら過ぎる不安を見つけては思わず宥めたくなってしまった己への呆れが含まれていて、故に感情の洩れたそれは、僅かにだが優しく映ったかもしれない。)……構わないよ。私もお前に言っておこうと思っていた事があるから、丁度良かった。…で、聞いてほしい話とは?(己の手札を明かすのは、彼女が罠に嵌まりきってから。まだ、出さない。あくどい手段でも確実性を優先するのだ、―自身にとって大事な事ならば尚更。腕を組んで首を傾ぐ彼と対峙する同級生を、窓の硝子越し、西日に焼かれた赤さが二人を包む―)

うん!でもやっぱし、当日までの準備が、一番キラキラしてるね。
小野原夏帆(授業以外では余り訪れることの無い5棟、人払いをするということを考えれたとは思い難いから、何もせずとも人気の無いそこは適当な場所だったのかもしれない。今はそんな事よりも、目の前の彼しか目に入らなくて。呼び止めた、その一瞬に掠める違和感―それも、振り返った相手の久々の姿に、些細すぎるそれは正体を探る前に置き去りにしてしまった。駆け寄る距離は、思ったよりも短い。―努めて普段通りを装った挨拶の、返事となる声の音は久々にしとしとと沁み込んで来て、思わずぴくりと踏み出しかけた靴先を自制したのは、見え隠れする不安だった。定期的に震える睫毛の下、瞳ぜんぶに映った相手の表情、微笑みには、思わず零れたような優しさすら感じられて―それなのに、仮定されたそれは全く逆にきゅうと胸をしめる。分かりやすく見開かれた瞳は一瞬の躊躇いを見せるも、揺らぎを隠すように睫毛を伏せれば「ううん、」と、ふるふる左右に首を振る。けれど、)…でも、立花くんが嫌な事は、したくないから………こ、…こまる、…かも。(真面目な声色で呟く。確りと告げようと来たのは良くても、まさか告げられる事すら許されない、という選択肢は浮かんでいなかった。一度に沢山の事を考えられない弊害を今更体感しつつ、どうしよう、とそろり窺う様に視線をもち上げれば、構わないとのその言葉――まだ、何もしていないのに、大きな事をやり終えた様な気持ちで、安心しきったように胸を撫で下ろせば、「よかった、」なんて小さく、解れた表情で一つ息を零し―、次いだ言葉には、ふ、と首を緩くかしげる、)…言っておく、事?、立花くんが、アタシに?――…って、あ、ん、…えとね、(何かあったろうかと一瞬離れかけた思考が引き戻されて、促されるままに頷くいたのに併せて二束の髪が跳ねる。一度深呼吸をして)…あのね、立花くんにゆわれた事をね、考えてみたの。…仲良くなれて嬉しかったのが、おわっちゃって、それで寂しいだけで、厚着先生には怒られてばっかしで、―…だから、無駄な時間だってゆわれてね、そうっかあって、すごく思ったの、 ちょっとだけ、なるほどなぁって思ったりして、(単純なのはいつものことで、言われて暫くはぼんやりとそれが本当なんだろうと思っていたし、ふんわり気付きかけた気持ちを下手くそな嘘で蓋していた。それで仕方ないかなともうすぼんやりと感じていたのを、一蹴したのは嘘が上手な後輩の一つの言葉で―。不安に揺れる睫毛の下の、ちぐはぐに真っ直ぐな瞳は、瞬きはしても逸らしはしないままに、)……でも、違う、の。…アタシが、立花くんを最初に意識したのは、厚着先生に言われたから、だけれど、―…けど、もういいんだって、厚着先生に言われた後でも、…アタシは立花くんの傍にいたいって思う、し、…もっと、些細な事でも良いから、知りたいなって思って、…怖い、のに、目で追っちゃって、見れないのに、見て欲しくて、…ずっと、潰されそうに、…寂しくて……、それで、……ええと、…だから、(走り回りながら考えた言いたい事を順番に消化していったら、段々と頭が回らなくなってきた。飽和しそうな気持ち全部を上手に伝える術を知らない、普段使わない頭がぐるぐるして、それと同時に今更目元に赤みが差し、両手が初心者の指揮者のような不明瞭な線を描く。それに併せて左右にくるくりしていた瞳が、見上げる、茜色の所為で何だか違う人みたいな影を落とす相手の顔の、夕日色を帯びた天使の輪の橙が、瞳の水膜にちかりと光って―、木々の間から夕日が零れる様に必然に、言葉を途切った前後の脈絡など考えず、綻んだ口元が予定にない言葉を継いだ。迷っていた手は、きゅうと結ばれたまま動かずに、揺れるのは呼吸に合わせた胸元のリボンと音を紡ぐ唇だけ―、)…きっと、好きなの。、立花くんだけの、好き。

全然退屈しなかったよ、―なにせ何処ぞのスパイがいたから、な。
立花仙蔵(包み隠すことを知らない正直な物言いは、いつだって立花を安堵させる。そういう所に絆されて此方も平素の調子を崩してしまいそうになるのを立て直しながら、本当に嫌な事だったら忠告する前に交わすような人間だと教えないのは、意地悪ではなくて。彼女の言葉を流して聞く日なんて恐らく来ないだろうから、知らないままでいい。躊躇から困惑へ、困惑から安心を得た様子を、隅々にまで反映しているその表情から窺って、―返答が嬉しかったなんてとんだ予想外にぽうと明かりを灯す心の裡を押し隠しては、傾いだ顔に首肯を。)嫌だと言われても、生憎と私も引く気はないから聞いてもらう事になると思うが、…まあ、先にお前の話だな。(冗談めかして自らの台詞を引用してきたのは、己の逃げ道を断つ為でもある。柄にもなく少し緊張しているのだろうか、何時の間にか握っていた拳をゆっくりと解く間に軽く息を吐き出して、それと同じタイミングでの深呼吸音にほんの少し瞳を細めた。―だろうな、と小さく呟いた相槌は、相手に聞こえていたかは分からないけれど。信じやすいのは彼女の美点だと思っている。それに丸め込まれて納得したままでいるなら、所詮彼女にとって自分はその程度の価値だったと量れるから、あの日吹き込むように無駄だと繰り返して。仕向ける種を植えたのは己なのに、いざ彼女の口から聞くと心臓の端に重石がついたような圧迫感に喉が詰まる。目に見えぬ所で静かに静かに立花を追い詰める声は、それと同じ強さで光明を射して――逸れないまっすぐな瞳が眩しいのは、果たして西日の所為だけであろうか。ひとつ、またひとつと、柔らかな声が言葉を重ねるたびに理性と感情の綱がじりじりと焼かれていって、―爪先までが、こんなにも熱帯びる。順番に紡がれて、だから、で途切れた感情の羅列は纏められた話とは言い難いものだけれど、その片鱗に相手の必死さを感じ取ればどんなに上辺良く言い繕った言よりも耳の奥であまく響いて。行き場無く彷徨っていた手が胸元に落ち着いたのを見遣った時、ひたりと、時間が止まる―)――……、(それが、例えば後輩にするような、家族にするような好意とは違うのだと。潤んだ大きな瞳と薔薇色に色づく頬と、贈られた言葉とがそう物語っていて、瞬間的に湧いた驚愕が色を変えて浸透してゆくその感慨のままに彼女の名を呼んだのも束の間、遠くに聞こえる足音に舌打ちを留められなかったのは状況が状況なだけに仕方ない筈。徐々に近付く音に思案するよりも先に目の前の相手の腕を掴んでいて、その横の教室―使用頻度が高く掃除もまめに行われている英語教材室であったのは幸いか。下手に響かぬよう扉を閉めて紙を痛めない為の遮光カーテンを引けば、扉に寄り掛かってもガラス窓に二人の影は映らない。分厚い戸に背を預けて腕の中に閉じ込めた彼女に、しい、と唇に人差し指を立てて、)………まったく、不粋な奴はどこにでもいるものだ。(終了の刻限が近付く今、最後の悪足掻きと見るか粘り強さを評価するか。完全に前者の胸中で複数の足音と声が廊下を駆けていくのを、己の胸のところに在る彼女の髪先を指でいじりながらやり過ごそう。―少しくらい早い心音を聴かれても、別段困りはしない。それよりも実感を得たくて躍起になる心に素直になる方が、今は大事だったから―夕闇が訪れる前の人工的なほの暗い室内、遮光カーテンを引いて外の光源を得たのは互いの顔がよく見えるように。)……小野原、(指の間から、さらさらと金色が零れゆく。腰を屈めて額を合わせれば前髪が混じって、金と黒の境界線が曖昧に暈ける。―言葉を貰ったら行動を、あれの次はこれを。湧き水のように溢れる感情は初めての事で、だから勝手が分からないながらも逃さぬように腰を抱いている辺り抜け目なく。もう片方の手で顎を掬ったなら、吐息が交じり合う距離で、囁く―)―それは、こういうことをしてもいい 好き、か?(触れそうで触れないその天秤は、彼女の返答次第でどちらにも傾くのだろう。罠を張ったとて所詮此方の敗北は決定しているようなもの。何故ならその罠自体彼女への恋情ありきの物だったからで、―言葉よりも雄弁な瞳が彼女の睫毛を掠めてまたたき、最終判決を委ねておきながら、甘くいざなう、)

!!……っ、えへへ。じゃあアタシ的には満点だなあ、自己採点!
小野原夏帆(ひとつひとつの言葉を紡ぐたびに足先から湧き上がる恥ずかしさは、じわじわと体を火照らせる。たくさん話したと思ったけれど、言葉にしてみたら、まだまだ 足りない。胸の中いっぱいの気持ちを残さずにすべて曝け出すには、小野原の紡げる言葉たちは器が小さすぎた。それでも、言いたかった事は言えて。言わなきゃいけないと感じた事は 言えて。―話してる間は精一杯で、良くも悪くも反応を感じてしまえば途中で言葉が途切れてしまう様な気がしていたから、ようやく、反応を窺うように口元を結んだままにじっと相手見つめられた。息遣いの音すら聞こえてきそうな沈黙の中、聞えて来た自分の名に、胸に添えていた指先がきゅうと握られる―も、微かに顎を引くのと同時に聞こえて来たのは、遠くの足音と小さな舌打ち。意識が一瞬で逸れて、ぱちりぱちりと瞬きながら足音の出所を探る様に周りを見回せば、しかし、音の方角を察するより先に、掴まれた腕。驚きの声を上げる前に引き込まれた教室の中で、いっぱいいっぱいだった脳が状況を処理する暇もなく、周りの景色が一転二転する。音もたてず、ただふわりくすぐる相手の香り。―静かに、閉ざされた扉に気付いたのは周りが暗くなってからで、引かれるままに抱きこまれれば反射的に体に緊張が走った。)!たっ、たちば…、ん、(幼い頃から慣れたその静かに、のジェスチャーには逆らえる事無く口を閉ざすも、瞳は不思議そうな疑問を抱いたまま近しい相手の顔を見上げ。―そこで漸く、薄暗い教材室の中でもこれだけ近ければ良く見える、相手の顔とのその距離に気付いた。瞬間、ぱあと頬を染めれば、色づいた頬を隠すように勢い良く俯く。結果的に相手の胸におでこを預けたその姿勢で、触れて良いのか駄目なのか一瞬彷徨った指先が、控えめに相手の制服を緩く掴んだ。服越しですら伝わってしまいそうな鼓動がなかで響くのが零れてしまいそうで噤んだ唇。聞こえてくる相手の心音の方が廊下を駆ける足音より確かに響いて、まどろむ様な思考を掬い上げるのは、相手の指先。髪で遊ぶ指先が肌を掠めるたびに、伏せ掛けた睫毛がぴくりと揺れて潜めていた息が洩れれば、じわじわ浸透する恥ずかしさに、唇を噛み締める力が少しずつ強くなる。ちかいあったかいやさしい、嬉しい恥ずかしいこのままでいたい―、いろんな感情に流されるままにぎゅうと目をつむれば、差し込んだ西日が真っ暗の視界にオレンジを添え。名を呼ばれるままに、閉じたばかりの瞳をそろりと開いては相手を見上げ――、先程、俯く前に見上げた時よりも近い距離に驚いて肩を揺らして、思わず相手の胸を押して距離を取ろうと叶わぬ抵抗を試みる。ほんの少しだけの後退はこつりとおでこが合わされば止んで、まんまるに開かれたその瞳いっぱいに相手を映す、いっぱいの黒と、混ざりあう金色、差し色にオレンジ。)……たっ、立花、くん!…、ち ちか、ぁ……(相手の視線から逃げる様に斜めに背け掛けた顔は、添えられた指先によって、くん、と相手の方へと向けられる。往生際が悪く一度揺れてから観念するようにそろりと持ち上がった睫毛が触れ合う様な距離は、心臓に悪くて、情けないまでに吐息が震えた。小さな声で囁かれる言葉はするりと合間をぬって入り込んできて、こくり、息をのんだ喉が上下する。――まだ、気持ちを聞いていなくて。だから、でも、この距離は、どう解釈すればよいのだろうか。すべてを都合よく受け止めるには足りなくて、けれど違うんだと思い込むには期待が大きすぎた。近づく事も離れる事も今のままではできずに、曖昧、聞きたいと聞けないが交差する中、心に落ちてくる相手の言葉はあまくて、それ以上に絡んだままの視線に、徐々に気持ちが煽られ――不安と期待と熱を帯びた瞳が波打ち、瞼が、その瞳に蓋をするのと同時に、相手の胸に添えた指先が制服のしわに引っかかる程度の力を帯びる。息を止めて、足の爪先に力を込めてほんの少し背をのばせば、会話するには近すぎる距離はすぐにゼロに縮まるだろうか。―触れているのかさえ曖昧な、キスと呼ぶには軽過ぎる触れ合いは、一瞬だけだったけれど、小野原にとっては何十秒にも感じた微かな感覚。いっぱいに広がるのは、原始的な喜びと、同時にそれを覆うほどの理性的な不安。堪え切れなかったなんて、自分に対する言い訳にすらなりはしない。踵が再び地面に着くのに前後して、閉じていた睫毛が震えてながら持ち上がり、薄く開いた唇から、止めていた呼吸と共に零れる声も少し 揺れる、)―……もっと、もっと好き、だよ。…ずっと、増えるの、好きって、たくさん、(いっぱい過ぎて、溢れ出る。取り繕う言葉とか、上手に気持ちを伝える言葉とか、まんたんの頭では考えつかなくて。弱気に下がった眉の下、細められた瞳に伏せられた睫毛のまま喉が鳴る。「好き、」と呟く声は、それ以外の音を知らずに、うわ言のように零れる―、)

基準はそれでいいのか?(ふふ、)一応調査が本業、だったろう。
立花仙蔵(特別教室が配置されているこの棟も、本日昼日中であったなら口か拳かは分からぬが委員同士でぶつかり合う声が其処彼処から聞こえたのだろうけれど、青空に暖色のグラデーションが掛かっている今は各々委員室へと撤退を始めている頃合だ。先刻までの騒然とした空気が水を打ったかのように静まり返っていて、少し落ち着かないと浮つく心は、けれどこの場を包む空気の所為だけではなかった。彼女の声の余韻を味わう余裕も持たせてくれなかった乱入者から身を潜めずとも、二三聞こえる足音の主を作法委員長らしくのしてやる事も、勿論出来た。その選択を一瞬で伏せたのは矢張り、この空間に何人の邪魔も入らせたくなかったからだと―格段に近付いた距離に反応して赤く熟れた顔を見遣れば、充足感がひたりと底に満ちてあたたまるから、俯いた彼女を無理に上向かせはしなかった。躊躇いがちに裾を掴んできた指先をそのまま受け入れて、嵐のように慌しく過ぎ去る足音。そうなればこうして隠れている意味もない―否、此処まで接近する意味だって元々なかったのに、彼は暗い視界を照らす光源を入れただけで離れようとも教室から出ようともせず、藍色のセーター越しに凭れていた額がゆっくりと上がって驚愕に染まるのを、嘗てない近距離で見つめた。)…そうだな、近い、………触れてしまいそうだな。(小さな漣のような笑みは、ここまで接近した側の台詞としては確信犯に過ぎるものだったけれど。期待を持たせる行為は返答を代返してではなく、最初に話したい事があると言った通り自らの口で言葉にすべき想いはあれど―まだ、ほんの少し、往生際が悪く躊躇しているのかもしれなかった。色めいた事に縁遠く、微かな夕陽の光だけが見ているこんな薄暗い教室で異性と抱き締めあうよりも眩い太陽の下で無邪気に笑っているほうが、断然彼女らしいと思えて。こうして自身のほうへと引き込むことへのささやかな葛藤が、最後の良心となって相手に最後の選択肢を与えるに至ったのだろう。――だから、直後に触れ合った一瞬のやわらかさ。僅かな躊躇いは残っている理性ごと無駄な抵抗だと一蹴された心持ちで、セーターに引っ掛かっている細い指先に力が篭ったのも、常日頃活き活きと輝いている瞳を隠す瞼が上下するのも、あえかに吐息をする唇が欲しい言葉を何度も繰り返すのも、―本当に毎回、彼女は此方の予想を遥かに上回って胸の真ん中を衝いてくる。だからこんなにも目に留まったのかと甚く満足した綻びが口元を彩って、此処までしながら弱気に押される眉尻には、ふわり、褒美の代わりに唇で宥めよう、)――いい子だ。(静かにこぼれた声で、彼女の溢れ出る言葉すべて受け止めた事も、それが彼にとってどんなに喜ばしかったか、滲んでいた。未だに顎へと添えている指先がゆると熱い頬を撫ぜたなら、悪戯な指は再びその定位置へと戻って―今度こそ傾ぐ顔、腰をいだくもう片手、睫毛を伏せる瞳、重なり合うほんの僅か手前―)…………好きだよ、夏帆。だから、離してやらない――(浮かべた微笑みは数日間距離を取っていた時の他人行儀なものとは違う、いつもの彼のものとも違う、たぶん、特別な。直ぐに相手の口へと贈ったくちづけは瞠目する間も口を挟む隙も与えず、先程されたのと同じ淡さで、ゆっくりと離れた唇が二度目の―否、彼女から受けた物もカウントすれば三度目の逢瀬で優しく啄ばんだ。密着する体から響くのは相手の心音か己のか、上手く判別出来ない。18センチの身長差は大きくて、覆い被さる形で腰を屈めれば腕の中に収まる存在は自分だけのものになった錯覚が起きるなんて、大概らしくない甘やかな思考に侵されていて―解放したのは、好きなだけ堪能した後。喧騒に満ちた健全で色気とは縁遠い者達が集まる学び舎でこういう行為に耽るのは倒錯的な気分になりつつ、夕日で赤味濃く差す金の前髪をかきあげて、その双眸を覗き込んだ。)大体、気がない相手だったら彼女に間違われた時点で否定するし、以降一緒に帰らなければ手も繋がない。だいぶ前から、とうにお前は特別だったよ。……鈍いのも考え物だな?(先程より離れているといえど未だ腰に回った腕はそのままに、責めるような揶揄しているような笑みは、彼女の反応を楽しむ平素のそれへと戻っていた。けれど秘めていた事を明かす口調は幾分か柔らかく、「そういう所も気に入ってはいるがな、」なんて付け足しの軽さで本音を潜ませれば、相手によって態度を変える事のない穏和さで一定の壁を作っていた男は、服を掴んでくる細い指へと自ら指を絡ませるのだ、)

そっちは落第かな…。…だって立花くんの弱み…って、あるかな?
小野原夏帆(―手を繋ぐのも、傍に居るのも、時と場合を選べばぎゅうと抱きしめる事ですら、相手が異性でもそこまで緊張する事は少ない。むしろ委員会の後輩は後輩の方が気まずげに照れるようなくらにはへたりと 甘い日常だから。だから、この距離が恥ずかしいというよりも、立花仙蔵その人がこの距離にいるから、恥ずかしい、と感じるんだと、自覚済みの気持ちを蓋解いた今、良く分かる。普段と違う色に照らされた睫毛の数さえ数えられそうな距離は、くすぐったいほど嬉しくて、だからこそ宙ぶらりんに揺れたままの気持ちの侭では、心地が良くて居心地が悪かった。渦巻く気持ちの整理を付けるには混乱が重なって、駄々をこねる様に顔を逸らそうとしたのに、結い留めるのは甘く響いてくる声――近い、距離を肯定する言葉に、動揺する。良いの、駄目なの―、と、揺れる瞳とと共に開いて閉じたくちびるが、再び開いて、再び閉じた。瞳が一定以上に潤まないのはきっと、自分の熱で蒸発しているからなんだ、なんて事が頭を過るぐらいには、なかが熱くて、溶けそうなのに、逃がし所が見付からない熱は、ただただ燻って溜まっていった―。――きゅうと瞑られた瞳に固く結ばれた唇、衝動的で一方的だったけれど、溢れ出る好きの気持ちは抱えきれるより大きかった。軽すぎる触れ合いの後、とった精神的な距離は至極控えめだった。怒られる?呆れられる?、不安ばかりが表面を撫ぜる中、相手が動いたのに身構えるように強張った体は、まゆに触れた柔らかさに、思わずぴくんと肩が揺れ、反射的に瞑った瞳の所為で冴えた感覚が、先程より色づく声を明白に捉えた。褒美の言葉は、内容よりもむしろそれを紡ぐ音の方に意識が向いて。―…、喜んで くれて、る?、そんなもしかしてが疑問符付きで浮かんだ仮説が巡る中、擽る様に頬を撫ぜる指先につられて指先がくんっとセーターを微かに引き。―、やけに時間をゆっくりと感じたのは、きっと錯覚。、あ、と思った時には整った睫毛が伏せられていて、――名前を呼ぶ暇どころか、添えられた言葉の所為で驚愕の緊張が走った睫毛を伏せる暇もなく、触れあう熱。実感する、視界いっぱいを侵食する黒、オレンジ、黒――、立花くんの いろ。じわり、じわり、痺れが思考を揺らして、離れた一瞬に唇から零れたのは熱か吐息か分からない程にあつくあまい。隙を縫うように「―た、ち」と、紡ぎかけた名が音に成る前に、振ってきた3度目のくちづけによって、呼びかけた音は舌の上で溶ける。呼ばなくても伝わる、呼んだ様な錯覚―だからただ今は、胸をとくとくと流れる甘さを堪能するように、ようやっと、そうっと整えられた睫毛に合わせる様に熱を帯びた瞳を隠した。ひくりと揺れる喉の奥から呼吸にまぎれて時たま堪え切れなかった声が零れるけれど、肝心の呼びたい名前は未だ呼ぶ事が叶わぬままに。セーターに引っ掛けた指先が感じるのは自分の心音なのか、相手の心音なのか、混じり合う音が互いの近しい距離を感じさせる。胸元のその指先は、未だそこ以外に居場所を探れずに留まって、ただ時折震える反応をする指先は、何よりも分かり易く。こんなにも人に恋い焦がれたのは初めてで、勝手の分からなぬ気持ちの操縦は上手いとは言えなかったけれど、胸いっぱいに広がるのは、幸せ。少しの重たさすら感じる相手の抱擁にも、感じるのは愛おしさだけで、時間を掛けて溶けさせられていく思考のまま―、―ようやっと開いた距離に、ついた息は熱気を帯びた安堵のため息に似ていた。覗きこまれた瞳は、とろけた気持ちを閉じ込めた様に薄らと濡れ、未だ若干呆けたようにはたり、はたりとゆっくりした瞬きを繰り返しながら、)、……たちばな くん、(夢うつつに、ようやく呼べた名は無意識に零れたかのような自然さを持って。未だ状況をうまく整理できていない頭のまま、掛けられる声だけを飲み込んで、普段通りの口調と内容に、少しずつ少しずつ晴れてくる脳裏。―、最後。からかう様な語尾にぴんっと背筋を伸ばしまう頃には、浮かされる様な熱は随分と形を潜めて。)―…っう、だ、だって 立花くん、とっても普通に、見えたんだよー!―…、彼女だって誤解され、た時も、手を 繋いだのも、凄く――…どきどき、してたの、アタシだけかなって 思って…、…(自己フォローの様な言葉を紡ぎながらも、重なる様に、気に入っている、なんて言われれば、んぅ、と飲み込んだ息は恥ずかしさと嬉しさ。一拍置いてから、へなりと主張していた肩が下がる。そんな言葉ひとつで簡単に満足してしまう単純さが、けれど自分でも嫌いではなかった。制服に引っかかっていた指先に彼の指が触れれば、ようやくその皺を寄せるのをやめ、長さの違いを確認するようにつつ、と滑ってから包まる様に絡んだ指先は、力が籠もる一瞬前に、未だ残る小さな照れくささに当てられたのかのように一瞬逃げる様に離れてから、握られる。―それだけの触れあいですら、嬉しい。えへへ、と緩む頬を隠そうともせずに、一番先程までの余韻を残す目じりの赤みすら、熱を帯びた先程とは違ってどこか穏やかな桃色へと変化していた。嬉しい気持ちの浮かぶままに細められた瞳と緩んだ口許は、青空の下でも夕暮の資料室でも、変わらぬ、しあわせ、だけを浮かべる表情―それが、何かに気付いたかのようにハッと肩が揺れてふいと相手を見上げ―、…近しい距離に 一瞬、未だ、慣れず。飲んだ息と胸の高鳴りを挟んでから、口を開く、)…、たっ、立花くん立花くん、忘れないうちに聞いておかないと、言いたいこと!アタシに何か―………、(言いたい事が、と、随分前の話を引っ張り出すあたり、鈍くて、その癖に妙に律義だ。しかし、紡いでいた言葉の途中で、―会議戦の終了を告げる鐘が鳴る。茜色に響く鐘の音は低く、思わず言葉を途中で止めて、落ちていく日の差し込む窓を、見つめた。喉が、こくり上下して。絡んだ指先に、縋る様に力がこもる。、良くも悪くも、表現が豊か。湧水のように零れる感情は、隠すと言う事を知らず。だから今回も、寂しさの青と満足感のオレンジが混ざり合う声色で、小さく―)――……おわ、っちゃった ね。

――小野原夏帆。…と言ったら皆信じるか、次から試してみるか。
立花仙蔵(恋愛線上のものでなく単なる経験としてこういう行為を交わした事はあるけれど、この感覚は、まるで初めてのよう、な。緊張も昂揚も、距離が零になった途端に重なっている所から溶けてゆく。己の名をなぞる声を食もうとしてか、その音が名前として成る前に再度被さった口は二度目よりも遠慮がなく、息を継ぐのも惜しくてその柔らかさを味わうのだ。―離したくないとか、もっと触れていたいとか、くちづけで一切の言葉を封じ込めているのに名前を呼んで欲しいだなんて裏腹な欲まで、全部が一緒くたの漣になって押し寄せて、この躯の余すところなく染み渡る感覚に酔いそうだった。セーターに掛けられた指が動くのはただの反射なのか、誘っているのか抵抗か。何にせよ、腕の中にまで抱き込んでおいて呆気なく解放してあげるほど彼は優しくもないし、淡白でもない。鼻先を重ねたまま少し作った隙間で熱帯びた一息をこぼしたなら、顔を傾いでもう一度、なんて、強欲だろうか―悪戯に疼く舌先を押し留めているのだから強靭な理性を褒めて欲しいくらいだ、とは彼女が知る由もない独り言なのだけれど。――覚束無い仕草でまたたきながら今度こそ名を紡ぐ唇は、親指の腹で優しく愛撫すれば微かな潤いと熱を孕んでいて。満足気につり上がる立花の口端が綺麗に三日月を作ったなら、)……なんだ、まだ足りない?(強請っているのか、と嘯く声はからかい半分に、こんな時でさえ悪癖は抜けないようだ。投げ掛けた疑問に返ってきた自己フォローに そうだろうなと飄々と笑って持ち出したのは、藤棚でのファーストコンタクトで話した―)ポーカーフェイスは得意だからな。案の定気付いていなかったみたいだが、手を繋いで…と言うより、その時の小野原の反応が可愛くて、結構どきどき、していたぞ。(彼女の言葉を借りて明かした事は、今現在胸のあたりに引っ掛かっているその指先から伝わる鼓動も併せて真実味を帯びて聞こえる筈。元々その時点で異性に対するに近い親愛の情を抱いていたし、劇的という程ではなくても静かな高鳴りを彼女と接した分だけ募らせていたから、意識していたのが一方だけ―なんて誤解もいい所である。一般的に恋心と称するその感情を、あからさまに主張するよりも後々の切り札にしようと当時意図的に隠していたのは矢張り、ひとえに何でも裏に隠せてしまう使い勝手と愛想のいい笑顔のおかげだったのだろう―。好意を潜ませた付け足しに素直に陥落するところが一層立花の調子に拍車を掛ける事など知らない様子で、戯れるように逃げては擦り寄る細い指先が、愛らしい。握り合わせた掌をそのままに、桃色に染まる緩んだ頬に眦にと唇を寄せる彼もまた戯れのように柔らかに贈り、見下ろす視線は優しく和んでいる―他の者には終ぞ見せない若干緩い表情を彼女だけには許しながら。言葉少ななその空気を突如破って見上げてきた顔には、ゆるり首を傾いで、最後まで言い切る前に遮ってくれた鐘の重低音に紫苑の瞳が彼女に倣った訳ではあるまいに自然と窓へと向いた。終了の合図。陽が、沈んでゆく。寂寥感ではないけれどそれに似た隙間風が首筋を撫ぜる感覚で、―嗚呼、終わったのか、呟いた声と同じタイミングで思った事が舌に乗る前に弾けて消えた。)………そうだな。(こぼれる光は低く重い鐘の音で一層色濃く沈み、迫り来る夜の気配を徐々に映している。学園内の何処かにいる皆はどんな気持ちでこれを聞いているのかと一瞬馳せた思考は、「いや、」と小さな囁きで再び意識を自分達の方へと戻し、強く絡む指先に応えて握り直す、立花の指―、)これから始まる―と言った方が、今の心境には近いかな。……言いたい事は、先刻半分告げた。あと半分はその延長だ、(繋がった手を持ち上げて、彼女の頬に、瞼に、目尻に、唇にそうしたように、爪先を啄ばんでみせた。一時も離さない辺り彼本来の独占欲が窺えるのが、果たして良い傾向か否かはまだ分からないのだけれど、)――お前は私の恋人、と解釈して構わないのだろう?(交際の申し出にしては図々しくも聞こえる、疑問系でありながら断定しきって揺るがない口調で、先程彼女が言いかけた事への答えを提示しよう。分かりきっているのに言葉で聞きたがるとは、いい加減俗っぽくなったものだと禁じ得ない苦笑を飲み込んで、―密室から出る唯一の扉を塞いでいる彼の望む回答は、誰よりも一番彼女が分かっているだろう―)

…そ、…それは、だめ…!…な ないしょ!…はずかし、から、
小野原夏帆(爪先から溶けていきそうだった。ひとつ、ふたつ、触れあうたびに胸の奥を擽る甘さが、足元を揺らす浮遊感。途切れず絶えずに寄せられるくちづけにまるで今が終わらない様な錯覚すら覚える。もっと、ずっと。そんな熱さに零れた吐息すら混じり合う様な距離ではきっと、取り繕う必要なんてなく。重ねられたもう一度を瞳を閉じたままに受け止めたのは、きっと予感ではなくて期待だった―。―完璧な角度を引いた笑みには、唇を撫ぜる親指と殆どぼやけた思考の所為で、返せたのは微かに睫毛を震わす仕草だけだったのに、反射の様に胸は、痛いくらいに高鳴った。その音が促すままに素直に頷くように引かれかけた顎は、しかし、からかう様な台詞を受ければ、慌てて途中で左右に揺れ、肩口で大袈裟に結わえた髪が揺れる。一瞬遅れて、頷きかけた自分に対する恥ずかしさが、背中を伝う。)…だ、 だいじょぶ…。(ぶわりと沸いた羞恥に下に逸らした視線と併せて息衝けば、囁いた声は自分に言い聞かせるように密やかに―。―あの夜を脳裏に描いても、少しだけ意地悪だっただけで普段通りの様にしか見えなかった相手しか思い出せないのは、自分が鈍いのか彼が巧いのか―恐らく、両方で。それでも、耳でも指先からでも感じる、ホントの響きをおびた声音と鼓動が、小野原の頬を緩ませる。)……えへへ。…、そっかそっかぁ……すごい、うれしーなぁ…、立花くんも、どきどき、してて くれてた。(あの時あの瞬間に。穏やかな幸せに胸に弾ませていたのは自分だけではないという事実が、満足感にも似た感情を運んでくる。唇を綻ばせて音のない笑みを零せば、悪戯気な色を帯びた瞳で見上げて、「今も、どきどきしてくれてる?」なんて問いかけるのは、手のひらの下感じる温もりからの答えを知りながらの物だからこそ、少しだけのいじわるのつもりで―。落ちてくる唇の淡さがくすぐったくて、肩を揺らしながらも、緩やかに笑みを浮かべる表情は崩れない。撫ぜられる代わりの様なキスは恥ずかしさを呼ぶ事も無く、優しく降ってくるキスも笑顔も、余すとこなく受け止めていけば、ぽわりぽわりと灯るの薄桃色した幸せ―。―こうして予算会議に身を投じるのもこれで6年目だけれど、終わりの鐘をこんな状況で聞いたのは言うまでもなく初めてだった。燃えるようにオレンジだった空はすでに群青色が混じり、恐らく空の端には光る星も顔を出し始めているのだろうか。ひとつの区切り、ひとつの終わり―、寂しさに揺れた瞳は、握り返された指先に併せて、迫り来る夜よりも柔らかな色を持つ瞳に向く。話が、鐘の前に話が繋がると理解した時には、引かれていた指先に落ちて来た戯れ―指先が、ぴくりと跳ねる。思わず引き掛けた手が、それでも繋がったままに離れないのは、本気で解きたいわけでも離れたいわけでもないのが本当だからだ。困惑を帯びた声色で名を呼んだはずなのに、それは音にならぬまま唇だけが六文字を紡いだ。―答えを、求める語尾と籠められた意図のちぐはぐさに、一瞬気を取られてまたたく。言われた言葉が二度ほど脳内で繰り返されてから―、びくっ、と逃げる様に僅かに体が後退して、爪先から指先から全身に、緊張が走る。――立花くんが好きで、立花くんも 好きでいてくれて、真っ直ぐだった矢印がくるんと回って、返ってきているのだから、だから、…そう いう――、巡る思考が分かり易く、かああ、と、落ち着いていた筈の恥ずかしさを、湧き上がらせる。)………う、ん。…うん、 うん…。(うまく言葉が出てこなくて、何度も何度も頷く。浮かべた笑顔は晴れやかとは言いがたくて、恥ずかしくて照れくさくて―それでも、嬉しさが堪えられなくて零れた様な、笑み。―頷くたびに首筋を沿っていた髪が、ひらりと後ろに流れ―、ぎゅう、と 抱きつく。胸元に添えられていた片手が背中へと伝って、全部をくっつけるようにぎゅうと精一杯に抱きついたら、「―、うれしい、」なんて無意識に零れた、言葉が前髪を揺らした。―指先だけで感じていた鼓動がより直接的に響いてくる距離に、色々な気持ちが解けていって、―だから、こんなにも気持ちが叶ったのに、まだ まだ、なんて思ってしまう。)……わがまま、ゆって良いかな。(緊張した声は、必要以上に小さな音で言葉を綴る。くっついたところから、言いたい事が全部通じたら、声に出す―なんて、恥ずかしい事が無くなるのに。話す所為で自分の中にも響く声―、その、頼りなさに自分でも驚きながら。確認代わりの言葉は返事を待たずに、震える睫毛をおして見上げた瞳は、真っ直ぐに相手を見上げる。茜色の潜んで薄暗さを帯びて来た室内でなら、言える気がして、「あのね、」と引き戻せない言葉をひとつ―)…、…もう一回。…名前で、呼ん で?(―、響く声にかさなる心音。自分がこんなに、欲しいに溢れた声を出せるなんて初めて知った。背中にまわした指先が、きゅ、と、答えを待つ間 緊張に、冷たくなる。)

そう?構わないが…これ位、そのうち嫌でも慣れさせてあげるよ。
立花仙蔵(意識せずして出た問いにその頭が真っ直ぐと動きそうになったのを見遣り、この状況下にも関わらず小さく噴出しそうになってしまった。犬が喜んで尾を左右に振る動きで二つの金の髪が揺れるのはとても否定には映らなかったのだけれど、密やかな吐息と共に伏せる逸れた眼差しに恥らう色を見つけては加虐心もそれ以上追い詰める事を躊躇うような、もう少しその胸の裡を突ついてやりたいような、二律背反の感情が湧いて―結局、)…それは残念。では今後のお楽しみにして取っておこうか、―これから飽きる位する事だし、な。(解れている毛先を丁寧に耳へとかけながら囁いた声に、それと分かる程に艶を含めたのはご愛嬌という事にしておいて。そよ風が肌の上を掠める程度の微笑みが耳朶を撫ぜて離れていったなら、それでも腰を抱いたままの距離、彼女の顔が緩むのを近くで見つめよう。柔らかに細められた双眸は満足感にたゆたう様子を眺め、一転して悪戯めいた調子で分かりきっている疑問を投げ掛けてこられたのには、瞬目を一度。このタイミングでその切り返しが来る事を予測出来ずに身構えていなかったが故の淡い驚きは次の瞬間には跡形なく消えていて、今度こそ瞳だけではなく口角にも笑みの気配を現した。胸の辺りに置かれている彼女の薄い手の甲に、押し付けるでもなくただ己の掌を重ねて、)分かっているのに聞くのか?それともこれではまだ足りないと言うのなら、…小野原に触れたら、もっと速くなると思うが。(手を重ねている今、その”触れたら”がそれ以上を指しているのは明らかで―相手の台詞の隙を突いて試す唇は自分から触れようとはせず、けれど欲しがっているのともまた違って、彼女の出方を楽しんで待っている素振りであった。仕掛けられた悪戯は倍の威力で返すのを身上としている、なんていうと質が悪く聞こえるから、可愛らしい言葉に加虐心が少し疼いた、…も大して変わらないのだが兎に角、気が済んだなら「……しているよ、とても、」と欲しがっていたのだろう回答を密かに囁くのだろう。――予算会議が終わって、明日からは騒々しくも平穏な日常に戻る。残り一年もないこの学園での学生生活で新たな縁を見つけたのは奇縁としか言いようがない縁か、若しくは必然であったのか―藤棚の下で交わした会話に心地好さを覚えていた時点で、彼女が隣にいる事の自然さに予感はあったのかもしれない。立花としては、彼女の一際の好意を確認出来れば正直恋人だ何だという位置付けは付加価値に過ぎないのだけれど、それでも、と申し出たのは周りへの牽制の意が強かった。所有欲が濃く滲む程の思いの丈は恋人という単語の裏に潜ませて、引きかけた手が離れてゆかないのを見越していたから動じずに、揺らぐ指先を掴まえたまま―頬に散った朱色が益々色味が深まった切実な首肯は、男の吐息だけの綻びを誘う。そして胸元に飛び込んできた頭を、零よりももっと繋がった距離で受けとめた。元来スキンシップの多い彼女はこんな時でも言動両方で有りっ丈にぶつけてくるから、残さずそれを掬い上げて、此方も彼女の器に注ぐように華奢な体躯へと改めて腕を回し、金の髪と細い背を支えて。かつ、と踵が扉に当たってこれ以上後退が叶わない瀬戸際の場所は、目に見えない理性の在り処でもあった。―緊張に張った声には片眉を跳ねさせて、随分頼りなげに言うと思いながら、)…言って御覧?(肩口に額をつけていた顔が上がるのに小さく首を傾いだ。我儘に見当がつかなかったのも、告げられた事に即座に声を返せなかったのも、玉響の惑いがあった所為。何故なら先程の名前は無意識にこぼしていたからで、もう一回と言われて漸く己が声がなぞっていた事に得心がいったのだった。ああ、そんなこと、―思った認識はけれど即座に改める。強請る彼女のあまい声に負けず劣らず、いざなって紡いだ先刻の名前には彼の欲しがりな激情に溢れていたから、なんだかお互い様な気がして早鐘を打つ相手の鼓動に心地好く瞼を伏せた。)……お前は本当に私が好きだね。(楽しげに鳴る喉、それも直ぐに止んで嫣然とした沈黙に、)可愛い我儘だ、幾らでも呼んであげるよ、夏帆。―――…夏帆、(二回目の名前は、声よりも触れた唇のぬくもりの方が正直に伝わったろうか。冷えた指先も瞬く間に火照る熱さを灌いで、―閉ざされた扉が開く気配は、まだ、ない。夕焼けから夜空に移り変わる部屋で、本来ならば帰宅を促さなければならない所なのに今迄焦れていた時間を取り戻すよう触れ合う熱を振り解くのに苦心しながら、もう少し、後少し、そんな言い訳を繰り返して―後にも先にも、ようやっと手に入れたこの少女だけが、完璧主義者を冠する立花の心奥深くに住まうのだ――。)


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