(広がる空の下、開いた屋上の扉は少し重かったけれど――)
(あの日から今まで、特別彼を避けていたつもりははないと吉野は言い張るだろう。視界に入ればちらりと目をむけるがそれでも話しかけないで、ちくりとした痛みを抱えながらすぐに目線を戻してしまうだけ。特別おかしなことではないのだ、クラスが違う、それも異性なのだから。そう言い聞かせるがしかし、あんな中途半端な終わり方に納得のいくような性格もしていなかった。けれど彼に話しかける勇気もなかった、何を話せばいい?話してどうなる?いろいろと考え込んできっかけが掴めないうちに、気がつけば予算会議が訪れてしまったのだけれど。――たまたま耳にした言葉に、気がつけば足は動いていた。会議も終わりを迎えるころ、いったん教室に帰った際隣のクラス前で話していた男子達の会話の中に、彼の名前と彼を見かけたという場所名が挙がったのだ。屋上。今はもういないかもしれない、そうは思ったけれど真っ直ぐに階段へと向かい上っていく姿にもう迷いなどなかっただろう。チャンスは今日しかない気がした。今までぐるぐると考え込んでいたことなどまるでなかったように、一度行くと決めたなら真っ直ぐに進む吉野はそのまま重い扉に手をかけ――音を立てて開いた扉から覗く広い空で、少しずつ落ちていく陽に一瞬目を奪われた。思えば屋上など滅多に来ないものだから、こんな風景も忘れていた。一歩二歩と踏み出して、―もし彼がまだそこにいたのならば、その姿に向かって名前を呼ぶだろう。もう迷いはなかったけれど、うるさく鳴り響く心音に震えそうな指先を、ぎゅっと握り締めながら。)
やっぱり屋上があるなら、上っておかないと損だと思うんだよな。
(見破られない自信は有ったけれど、鉢屋が彼女を避けていた事は、当人と、特別な友人達には気付かれてしまっていただろうか。此方から話しかける事が無くなり、あちらからも同様であれば、避けている様だと思い至るに足りなかったかもしれないが。予算会議中にスパイとして距離が縮まり、そして崩れ。その核である予算会議も終わりを迎えようとしている今なら、もう、何も無かった事になるだけだ、と―今更思考に過ぎって胸の辺りが擦れる様に疼いた。――向日葵の様に暖かく咲き誇る笑顔を持つ先輩との邂逅で、偉そうに助言めいた発言を―直接的では無いにしろ―突き付けておき乍、自らに換算する事は無い。此方から動く事もきっと、無くて――先輩と別れてからも移動する事無く時間を潰していた。沈み始めた夕日が今日の終わりを告げる中、丸で何かを待つ様にフェンス越し、街並みに視線を落とし―背後で扉が開く。真っ直ぐに届いた声に目を伏して、一拍の、間。ゆっくりと、世界を視界に映し出して。)何?(振り返って、薄っすら張り付けた笑みは、誰にだって向ける様な中身の無い物だったろうか。久しぶりに言葉を交わすと言うのに其れらしい素振りも見せず。かしゃり、触れていたフェンスから手を下ろせば、両手はポケットの中に落ち着けて。―あの日振りに、漸く。彼女の眸を、静かに見詰める。何時の間にか見慣れていた其の眸も、鼻も、唇も、―胸の端を紙屑の様に焦がし乍、じわじわと侵食させて行く要因である様であったのに。)…何か用か、吉野?(何時かと一言一句違わず、作り上げた笑みで掛ける言葉は底を見せない。)
屋上に用事があることなんて滅多にないけど…景色を見に来るの?
(扉を開いた先に、彼はいた。振り向いた彼の表情に、じわりと不思議な感覚が身体に降り注ぐ――そんな表情をされるために来たんじゃない。緊張のため僅かに震える唇をきゅっと引き結んで、そっとドアノブから指を離した。閉じた扉の金属質な音を合図に小さなため息をついたなら、あの日を思い出すような言葉の羅列に、どうしようもないように口元を緩めて、)…鉢屋が気になって。(あの時と違うのは、誤魔化すために使われるわけではない、返した言葉に込められた重み。言葉を紡ぎながら歩き出した足音がタンタンと頭まで伝わってくる、決して大きなものではないはずなのに。――歩み寄ったフェンスから、広がる風景にあの夜のことが僅かに過ぎる。背中を預けるとかしゃりと鳴った。彼と少し離れたその場所で、冷たいフェンスを背に空を見上げて、)ずっとここにいたの?見かけなかったけど。(そう尋ねて、視線はそのまま。会議中、校内や校外を回っていたけれど、彼の姿は見かけなかった。特別探していたわけでもないけれど、いないだろうかと気にしてしまうくらい彼の存在はこの数時間、数日間の吉野の頭の中に居座っていたから――)
…何方かと云うなら、気晴らしに、か。景色を見るのも含めてな。
(二人の間に作り上げたのは、一歩の距離どころか、薄く透明で丸でガラスの様な大きな壁だったろうか。容易く壊れてしまいそうでいて、危うさを保ったまま意地を張り続けている―不安定で、不器用で、不確かな其れは、然し存在を主張していて――其れでも。明確に伝えられる言葉に、揺らがされる。何故そんな表情をしてくれるんだ。ざわざわと波立つ心内とは裏腹に、口の端をぴくりとも反応させる事も無く、「へぇ」、零し慣れた、無感動な音は、遠く聞こえる四輪の音と共に溶けて橙に滲んでいったけれど、)…存外物好きだよな、吉野は。もう、仕事も終わってるって言うのに(表情は崩れきらないのに、溜息交じりの声に乗せて、はっきりと彼女の名を紡いでしまうだなんて。矛盾を抱えた侭の胸裏に蓋をする様に、“仕事”、と蒸し返すのは、其れで居て、縋る様な―真実を求める為の高慢さで以って暈されたろうか。近付いていく距離に、胸が軋む。本当は、自らの下らないプライドで、本音が漏れる事を邪魔していると気が付いて居乍、素直になるなんて、もう遠い昔の事過ぎて―そもそも素直な時代が在ったのかすらも、―忘れた。だから。フェンスの向こうに視線を戻せば其の侭彼女の視線と交える事も無く、紡がれていく言葉に、また、揺れる。)……此れだけ広い学園内、好き勝手に動いていれば見掛けなくても可笑しくはないだろう。―其の言い方だと、丸で見掛けたかったと言っている様にも聞こえるな(否。純粋な興味だとしても、そうで有ればと云う、願望が含まれて居たろうか。他愛の無い話でも、彼女に向けたい言葉は幾つも溢れてきそうだったのに。平然と距離を取る言葉は、何時の間にか張り付けた笑みも引っ込めて、静かに睫毛を揺らした―)
そう。…鉢屋は空が好きなの?空っていうか、風景っていうか…
(彼の紡ぎだす音に反応するように揺れる心音。やはりどこか一線を置かれたような彼の言い回しは、何か苦いものを吉野の中にじわりと染み込ませて来る。けれど、だからといって躊躇するつもりはなかったし、躊躇していてはこれ以上進めないのだろうとも感じた。意識的なものにせよ、無意識的なものにせよ、聳え立つ壁を通り抜けるには此方から踏み込むしかないように思えて、)…そうかもね。仕事は終わってるけど、私自身はまだいろいろと納得してないから。鉢屋に近づく理由はなくなったけど、近づいちゃいけない理由もないでしょう?(言い切って、ちらり、彼を横目で見ると、見慣れたようで懐かしいような横顔。いくら探しても見つからなかった彼は、ずっとここにいたのだろうか。気がつけば彼を探していたその事実―彼の言うことはどれも最もな言い分で、一度のため息の後、否定することもなくかしゃりとフェンスを鳴らして、)どこかの罠にでも引っかかってればと思ったんだけどね。…鉢屋が嵌まるわけないか。――その言い方だと、まるで見掛けたいって思われたいように聞こえるけど。(久しぶりに聞いた、彼らしい少し捻くれた言い回し。彼の言葉を真似て言い返す口元は、少し楽しげに緩んでいた。一つ間を置いて、目を伏せて零すのは、紛れもない本心。)見掛けたかったよ、だから今ここに来たんじゃない。…あの日に言えなかったこと全部言おうと思って。中途半端になるの、嫌だから。(彼がどう受け止めようと、伝えることに意味がある。言葉にしなければ伝わらないだろう吉野の想いを、このまま渡さずに仕舞っておけば後で絶対に後悔すると自分でも解っていた。―空へと向けていた視線を彼に向けて、告げる。)未だに、何て言えばいいかよくわからないんだけど……スパイ活動とか、そういうの全部関係なしにね、…鉢屋と一緒にいる時間が好きなんだと、思うの。スパイがあるから会いに行かなきゃってこじつけてたけど、途中からはきっと、私自身が鉢屋に会いたくて、…その、(文章にまとめて整理してきたわけではない言葉は、上手くまとまらずに途切れがちで。言いながら恥ずかしさが襲ってきた両の頬は熱かったけれど、目を逸らすのは一瞬にして、また彼の元へと帰ろう。逸らしたい気持ちを堪えて、瞼に力を込めて、)つまりね、もっと、……いっ、しょにいたいって思うくらい、いろいろなものを鉢屋はくれたから。…何かあるってわかってたくせに付き合ってくれたでしょ。だから、ありがとう。(礼だけでは伝えきれない気持ちは上手く声に乗せられなかったが、それ以外はなんとか伝わっただろうか。出てくる想いをそのままに素直に気持ちを伝えることくらいしか伝える術を知らなかったから、零れるままに綴った言葉たち。言い終えたなら、「それだけ」とため息と照れ隠しの笑いを交えて、視線を足元へと移して。まだ肌寒い風が、僅かに火照った肌を撫でてくるのが心地よくて、彼の返答に対し特別身構えることもなく、小さく息を吐いた。)
…好きだよ。見てると遠くまで行けそうな気がするから。
(距離を取りたがって居る癖に、久々に交わされる言葉は優しく穏やかに鉢屋の胸に届く。一人で抵抗を続ける自らが馬鹿らしく思える程には苛立たせられ、其れを上回る程の期待感が混ざり合って塞がせる位には不安定な道を這っている気分であった、けれど、)…納得ね。其れは簡単に解消する物なのか?……俺が嫌だと言っても、理由にはならないんだろう。(自らで固めて行く鎖は、こんな筈では無かったのに、なんて言い訳もさせてはくれないのか。其れこそ、一度拗ねてしまった手前、引っ込みが付かないだけではあったのだけれど、「いいけど…」、彼女の行為を肯定する様に、繋ぎ止めようとちぐはぐな言葉が続く。否定が返って来ない事へ浮かぶ安堵感。移された視線の気配でさえ愛しくて、普段から重い瞼は逃げる様に視界を細く狭め)――……(そうだよ、と、吐息に似た口の中だけの呟きは彼女に届いたかしれないが、続けられる言葉を耳に、深く深く双眸を塞ぎ込む。思い返すのは、屋上に居た間中眺めた、地上の光景。鉢屋と違い動き回っていた様子の彼女が、見通しの利く地上を横切った姿。目が逸らせなくて、胸中繰り返したふりむけ、なんて四文字は、終には届く事も無かったけれど、見掛けられたかったと告げる前に優しく降り積もる相手の言葉の欠片達は、包み込む様に、抉る様に、同時に様々な角度から、鉢屋の真情浮き彫りにしていく)…吉野らしい、(中途半端が嫌と言い切る彼女に視線を移せば、降参でも告げる弱さの音を鳴らした。不機嫌そうにも見える相好は、どんな表情をすれば良いのか判らなかったと言った方が近くて。真っ直ぐと向けられる、意思の篭った黒曜石に吸い込まれる様に、気付けば、ゆっくりと首が動いていた。相手の方をじっと見詰める形に為って、瞬きも忘れる程の、長く、短い時間。逸らせなかったのではなく確りと逸らさない様にして、全部、全部、ぜんぶ―受け止めたいと、思った。胸裏に沸き起こる感情が、歓喜だと呼べる物だとすれば、渋く歪められる相好は、矢張り、素直では無い、崩し切れない自尊心、か。)――、…………なんだよ、其れは。―有り難う?其れで如何致しましてで仕舞いか?…結局、吉野は如何して欲しいんだよ。今迄の話だけで終わらせる心算だって?(つらり、つらり、至極如何でも良さそうに零れて行く破片は丸で否定する様な言い様で在ったけれど、其れが礼で止まった事に重きを置かれている意味合いが伝われば、縋りこそすれ、拒絶では無い事は伝わるだろうか。捻くれた言い回しは今更だ。けれど。鳴り始めた警鐘は、どんどん耳鳴りを大きくしていって――不意に。通り抜けた風が、柔らかく撫でる様に髪を揺らす。其の時頭の中で木霊した、“素直に”という声は、友人の物か、先輩の物か、或いは重なり合った響きであったか。心穏やかに落ち着ける光は、遠くから、強引に本音を引き出させようと微笑んだろう、―彼女から遠い位置に在った左手が、彷徨う様に空気を揺らす。相手にきちんと向き直って、其の手は彼女の髪を梳く様にするすると頬を滑って、強引に、顎を持ち上げる。)そんな事は赦してやらないからな…(ぎゅっと、泣きそうに細めた双眸で、相手の眸を覗き込む。乾いた眸を瞬かせる、一瞬の間。固定した顎に近付いて行けば、恐らく彼女が状況を飲み込むより早い段階で―短く、唇を降らせる。瞬時にしては、優しい所作で、言葉では伝え切れない真情を、吐露するが如く、)……俺が、何も無しに付き合うと思うのか。誰でも気に入りの場所に連れて行く様な性格はしていないぞ。そもそも疎ましい人間を側に居させたりなんかする筈が無いだろう。察せ無い程鈍い訳じゃ無いと思ってたけど、(其れでも、終わらせる心算か?…表情だけは、退屈な物に対峙する様な高慢さに逆戻りしていたけれど、ゆっくりと紡ぐ音は、答えを強く、望む物。漸く―ようやく鉢屋から歩んだ、一歩は、止まっていた分大きく、深く。――あの日の拒絶は、理由が無くなって関係が絶たれてしまった場合の恐怖。可能性が否定出来ないのなら、知る前に逃げ出してしまうのが安全策だと告げる警鐘に従った迄の事。耳鳴りを打ち払い乍、夕焼けの訪れと共に聞いたチャイムなんて気にも留めずに。真っ向から彼女を見詰める眸は揺らいで居たかもしれないけれど、我侭に、貪欲に、低く落ちた声が、吐息を孕んで、震える―)続き。もっと、はっきり聞かせろよ。
鉢屋らしい。…届かないところには、行ってほしくないけど。
(己とは全く違う考えを降らせてくれる彼。ひとつも逃さないように、それでも揺らされないように、今日向かい合うのだと覚悟を決めてきたつもりだ。自身の想う気持ちをそのまま彼に伝える、それだけのことにこんなにも勇気がいるなんて今まで感じたことはなかったけれど、)簡単か難しいかは問題じゃないの、何もしないのが嫌だっただけ…溜めておきたくなかっただけ、きっと。…ん、そうね、その可能性ちょっとは考えた。だからって引かないけどね。(もし彼に本気で否定されたとしたら――考えるだけで恐ろしい可能性も視野に入れたけれど、切りがないものを挙げていくより進んでしまうほうがいい。そう考えた結果、今ここにいるのだ。そして、彼はどんな形であれ、肯定してくれている。付け足された短い言葉に口元を緩めて、――彼の唇が僅か動いたのを見逃しはしなかったけれど、特別聞き返すこともしなかった。今はとにかく、伝えたい。感謝の気持ちと、それに紛れた、隠れたがる柔らかで切なげな感情を抱いたまま落としていく、言葉達。自分らしいと言ってくれたその瞳に届けるように一つ一つ大切に送り届けた言葉。――ありがとうと言い切ってもまだ伝え切れていない気持ちは隠したまま、このまま終えるはずだった。はっきりとしないものを相手に向けて放つことはとても不安定だと思ったからだ。吉野自身、これで十分だと思っていた。―だから、畳み掛けるように告げられた言葉達に、どうしたらいいかわからず一瞬口を噤んで、)どうして、って…お礼が言いたいって、思って。…そ、れと、もっと…(もっと一緒にいたい。先ほど、誤魔化すようにそっと告げた言葉は今度も言い切ることはなく飲み込んでしまった、彼の指先が触れたから。伏せていた瞳を開き驚いたように見上げた彼は想像以上に近くに居て、その指が滑る肌に感じる擽られる感覚と緊張と困惑に小さく肩が震えて、―瞬間、)――はち、(塞がれた声。触れてきた彼の腕を掴んだ右手も、力が抜けたように滑り落ちた。見開いた瞳には彼ばかりが映って、あまりにも優しい唇に反して心臓がうるさく鳴り響くだけ。――何か言おうと口を開いても、言葉の切れ端ばかりがぷつりぷつりと浮かんできて意味を持たず、彼の触れた場所に指先で触れながら、流れるように、それでも聞き逃さぬようにと紡がれる話を聞いて行く。寒さなど忘れたように熱を持った身体はしばらく落ち着きを持たず、瞳は下方を向いてゆらゆらと揺れて。遠くに聞こえるチャイムに引かれるように彼に促されるまで動けずにいた身体は漸く息をして、少しずつ、零すのは―)…わから、ないの、鉢屋も…私も、ぜんぶ、もっと、ちゃんと理解してわかってから言おうと思ってて、…でも今、いっぱいいっぱいで、(中途半端になるのは嫌だと先ほど言ったとおり、きちんと形を確かめて解ってから、伝えたかった気持ち。本当にその名前をつけてよいのだろうか。勘違いでは?一時の気の迷いなのでは?考えれば考えるほどわからなくなって、それでも想いは大きくなるばかりで。今にも張り裂けそうになりながら、少しずつ零れていく、欠片。)今だってすごく驚いたけど、嫌じゃなかった。う、…れしかったと、思う。一緒にいたいし、もっと鉢屋のこと知りたい。…触れたいし、こっちを向いて欲しい。…そういうのが、いっぱい。(言葉にしていくことではっきりと彼に伝えると同時に、自分の中でも鮮やかになっていく想い。あと少しで掴めそうな答え――きっと名づけるのが怖いだけなのだ。吸い込んだ息は冷たく喉に刺さり、すぐそこまで出て来ている言葉の熱を高めていく―一あと、少し。)
…さぁ、保障は出来ないが、今の所此処を離れる心算もないかな。
(敢えて選ぶ厭味な言い回しの言葉すら、彼女は受け止めた上で、自らが望む言葉をくれるのだ。初めこそ擽ったくてそんな照れくささから居心地の悪さを与えられていたようでもあったけれど、―慣れ、だったのかもしれないし、絆されたのかもしれない。何方にせよ、今はそんな居心地の悪さなんて感じないで、何故だか汲み取ってくれる彼女の言葉に胡坐を掻いて待つだけ、だなんて図々しさで、引っ掛かりを誤魔化す様に、引かないと言い切る彼女に何も言葉を返す事はせず―出来ずに居た。焦がれる心内からも、只視線を逸らして、―逃げるのが楽だった。立ち向かう必要は無くて、必要な物は既に懐の中に有ったのだ。だから、ちら付くだけの恋情等、切り捨ててしまえると思っていたのに。求め始めたら強欲さが容易く顔を出して、しまうから。――彼女の言葉を遮って奪った唇と言葉は、如何してこんなにも不安を駆り立てるのか、―理解しない様に、していたのに。其の行動自体が、もう自らの真情を訴えていた。隠せない。隠す必要も、無い。其れでも奥底から生じる熱を留めて、瞼の下がりがちな双眸で相手を見据えれば、促した言葉は途切れながら、探る様に、拙く、ゆっくりと紡がれていく。穏やかに、胸中を凪がせる、温もりで包み乍――ずるずる、彼女の頬から指先が滑り落ちていく。力無く滑らせて、そのまま彼女の髪を伝う様に、ゆっくりと其の三つ編みを緩く掴んで、無意味に指先で弄んで――答え、出てるんじゃないか。…そう胸中で呟いた言葉を表に出す事は無く、一度眉根に力を籠めたなら、其の侭頭を、相手の肩口に、預けてしまおうか。)―なら、一緒に居ればいい。解かるまで。…俺は知りたいと言われて教えてやる程親切じゃないし、ずっと向いててやる程素直では無い事もお前は承知だろう。(彼女から零れる言葉とは対照的に、素直に自らの感情を伝えるなんて、今までサボって来た事は今更乍に道を塞ぐ。―そして、当然の如く回り道の言葉を続けてしまうのだから、今だけ必要なのだとしても、一朝一夕で変わる物では無くて。其れでも伝わる様に、ゆっくりゆっくり、言葉を紡いでいく)自分で答えを出せ。俺から何か聞きたいなら、其れからだ。吉野が言えば、俺も言ってやるよ。(―卑怯でも、良い。吉野ならば其れすら受け止めてくれるだろうなんて自惚れめいた感情で、耳元で囁く声ははっきりと、もう迷いなんて消え失せて。髪を弄る手とは反対の腕を相手の背に回したなら、するり、するり、ゆっくりと、背から首筋に向かって這わせる。今にも焼き切れてしまいそうな胸中は穏やかでは無かったけれど、其の熱も触れた所から相手に伝わってしまいそうで、触れて居たいのに、逃れたくなる不安定な衝動。其れでも矢張り、食べ尽くしてしまいたくなる程の熱情は、抑え切れず―)勿論。相応の覚悟はしてもらわないといけないけど、(物騒な一言と共に、首筋を指先でついと撫でれば、其の襟首を、下げる様に掴んで――首筋に、歯を立てる。甘く優しい物ではなく、痕を付ける事を目的とした、一度だけの狂気の現れ―。感情を理解した時にはもう離してやる心算は無く。もう疾うに、罠は張り巡らされ始めて――彼女の首筋から唇歯を離せば、其の侭、一歩、距離を取る。遅れて離した髪が、彼女の胸元に落ち、そうっと緩慢な瞬きを落とす、其の長くも短い瞬間。切り替えた表情はにぃっと悪戯に口の端を吊り上げて、双眸も三日月を描く。)欲しいなら、掴まえてみろよ。(楽しげに、紡ぐ、そんな嘘。もう疾うに、捕らえられているのだから。残りは此れから先の話。何処にも行かないなんて約束も、側に居るなんて甘い愛の囁きも出来ないから、代わりに突き付ける挑戦状に、彼女が応えてくれると信じて。両掌で空を仰ぐ。掴まえた茜色は掌から零れ落ちてしまいそうだったけれど、焼け付く紅は、心臓に強い、熱を灯して――)
もう、そういう言い方。…どこかに行っても、追いかけるもの。
(――今まで必ず、彼との間にはどこか距離があったように思う。簡単には踏み込めないバリケードがあって、どうやって近づいてやろうとあれこれ考えていた―はずなのに、いざこうして彼から歩み寄られてしまうとどうすることもできない自分がいた。こんなにも近くに彼を感じるのは初めてで、触れる体温に身体の奥底がぶるりと震えるよう。嬉しくて恥ずかしくてどうすればいいかわからなくて、動揺する此方の心情を知ってか知らずか、彼の指は俯いて誤魔化すことしかできない己の髪に優しく触れて、――僅か肩に感じた重みに大きな愛しさを覚えた。)………うん、(解るまで一緒にいればいいと、彼らしい言い回しにただ頷くことしかできず、浮かばない言葉の代わりに、答えるように手を伸ばして。今の吉野には彼の腕を掴むだけで精一杯だったけれど、彼に触れて、こんなにも近くで声を聞いて。もう答えは出ている気がした。それでも、解ってしまったら一緒にいれなくなるのではないかなんてらしくもない小さな不安。捕まえているのに、すぐにすり抜けて逃げ出してしまうのではないだろうかという焦燥。―だってまだ、知らないことがありすぎて。それでも、)…ずるい(笑い交じりに零す、愛しむような声。彼にも答えてもらいたいから、早く名づけて伝えてしまいたい。矛盾する気持ちは愛しいものばかりだったから、何も恐怖はなかったけれど。今はただ、こんなにも近い彼に手を伸ばすことで精一杯で――突如、背に回った手に僅か身体が強張る、。彼に与えられたように、撫でられた首筋がただただ熱く熱を持ち、)っん、なに、くすぐった…――っ!(噛み付かれた瞬間、びくりと肩が跳ねた。ここが何処だかなど忘れてしまうように何も考えられない脳内はぐるりぐるりと回り、思わず引き剥がそうと彼の腕を掴む手に力を込めようとするもそれも上手くいかず、一気に降り注いでくる熱に耐えることに必死だった。)は……はちや!(顔を上げた彼から手を離せばそのまま己のシャツの襟首を、其処を隠すようにくしゃりと掴みながら、彼の名を呼ぶ。何をするのだ、という意味を込めたものなのか、ただの照れ隠しか、自身の中でも曖昧で、――けれどいつものような笑みが彼の顔に浮かんだのなら、どうしようもないように眉が下がってしまうのだ。―やっぱり、ずるい。どうせ彼は待っていてはくれないのだろう、ならば、全力で追いかけるしかないではないか。悪戯に両目を細める彼につられるように口元を綻ばせたならば、フェンスから一歩二歩遠ざかり――肩越しに振り向いて、素直に、)初めて見た、そういう顔。鉢屋らしいね。…好き。(上っ面だけでない、偽りのない楽しげな笑顔に向けて、たくさんの意味を込めて持たせる言葉。違う形で彼に伝えるのはもう少し先になるかもしれないけれど、まずは此方から彼に手を伸ばすことから始めよう。少しずつでいい、彼を知っていこう。生まれた熱は消えないままだったけれど、見上げた茜空を映し出す瞳は、酷く穏やかに瞬いた。)
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