綾部喜八郎と千曲若葉 

(校舎内、執拗に避けていたはずの相手との、二度目の遭遇―)
綾部喜八郎(―もうすぐ予算会議が終わる。罠も突撃も恐れる事無くグラウンドを悠々と横切りながら見上げた校舎の時計が、終了時間が近い事を示していた。そう意識してまわりを見回してみれば確かに疲労の色を浮かべた生徒が多い気もする。綾部自身は余り積極的に動いていない事も手伝ってかそこまで疲れていると言うほどではないのだけれど。一番の疲労の原因は校内で遭遇した先輩から突き付けられた写真だろうか、あそこでは一気に疲れた。そんな事を考えながらグラウンドを抜け、校舎へと入り、目的を持って一番最短距離を選んでずいずいと進んでいる足は、委員会室の方へと向いている。もう既に会議を抜ける気満々で、さっさと委員会室で藤内の淹れた紅茶を飲んで甘いものを食べて帰りたいと、そんな気持ちがありありと出ている、綾部にしては少し早目の歩調で階段を昇り廊下を歩む。主に校舎外での活動が主だった所為か所々泥土で汚れた制服から零れる砂や土を気にした様子もなく、一応は風紀委員と銘打たれた作法委員の4年生にしては全く職務怠慢な態度だっただろうか。とんとん、どこか軽い足音は、ふと、動きを緩めた―。―呼び止められるのか、偶然目にするのか、或いは一方的に気付くのか。どちらにせよ、会議が始まって直に出会ってしまった少女との、再びの会合は案外と早く訪れた。会議中は出会わぬようにと姿を見かけたら避けていたのだけれど、すぐに会議が終わると言う意識の緩みが判断を鈍らせていて。そんな、会いたかった様な会いたくなかった様な、彼女の姿が思考に紛れれば、緩んでいた動作をぴたりと止め――小さな音で、名前を呼ぼうか。聞こえるか聞こえないか、唇の動きさえ、ささやかに。)

鬼ごっことかより、友達と本読んだりとかのが好きだったなあ…。
千曲若葉(――勝率は、今一。先輩や後輩達が挽回してくれることを祈りつつ、会計室の前で先輩と別れてから、しばらく。ぱたぱた足音のリズムを刻んでいた廊下が何時の間にか静かになっていたのは、千曲が歩調を緩めたのではなく、動きを止めていたから。偶然視線を移した窓の外に、駆ける一人の生徒の姿を見つけて―誰か、までは分からなかったけど、千曲に足を止めさせた理由は、何てことのない、その生徒が見に纏ったジャージの色―この学園の指定の中で、一番派手な、紫―にあって。彼と全く面影が重なることもないのに、目が追うのは、その行き先が、彼の方へ連れて行ってくれる気がして――そんな訳ないか。頭を振って学園長室へ戻るべく再び足を動き始めようとした―ところで、また、動きが止まった。)ぁ、(一瞬、見間違いかと思ったくらいに、いつの間にか―距離はまだまだあったけど、真っ直ぐ向けた視線の先に、つい今し方も姿を探した、彼が、確かに存在して。さっきの今で、切り替えたはずだった頭も、どんな顔をしていいか分からないと混乱を訴えていて、めずらしく、足が竦んだ。今遭遇したことを、嫌だと、思われていたらどうしよう―浮かぶ不安が黒く昏く渦巻いて溢れてきそうで、不安に睫毛を揺らして、一拍――微かに聞こえたその音に、ばっと大きく目を見開いて、―気付いた時には、足が、前に進んでいた。駆けていた。言葉少ない彼の、滅多に有り得なかった、自身を、呼ぶ声。それだけで湧き上がる衝動に、たんじゅん、だと自分でも感じながら、逃げられないのならば―否、逃がさない、為に、駆けた勢いのまま、彼に飛び付いてしまおうと――)

そう?…私は、かくれんぼが好きだった。隠れる方で。
綾部喜八郎(目が合って、自分を認識したら必ずと言ってよいほど何かしらリアクションを起こすのが、普段の彼女で。綾部自身もそんな対応に慣れ過ぎていたから、目が合ったままに微動だにしない相手を見るのは、初めてに近かったかもしれない。静か過ぎるほどの静寂に、本当に微かに紡がれた彼女の名前は綾部の耳には届かなくて―けれど、弾かれたように揺れる黒髪を確認すればきっと、自分はちゃんと名を呼べていたのだろうと。揺れる黒髪がちらりちらり、先程の動かない彼女よりずっとそちらの方が心地良い―そう、目は近づいてくる姿を捉えてはいたけれど、常どおり思考はわが道を行っていた。だから、気付くのが遅れた。小さな一度の瞬きの後、)―……え、(、意識が引き戻された頃には、もう目の前に広げられた腕、近い距離、まっすぐな瞳、―避けることは出来たけれど、避けようとは思わなかった。彼女が それ に備えていなかったというのは、小さな理由の一つに過ぎず――瞬きの間に、体を襲う小さく確かな衝撃に、少しだけ睫毛が伏す。―しかし、二人分の体重を支える為に後退した踵が廊下を踏み外したのは、本当に偶然だったのだろう。「――あ、」と呟いた頃には、体を襲う浮遊感。反射的に回した腕は、相手の後頭部を肩に押し付けるように添えられて―廊下に響いたのは、情けない転倒の音だっただろうか。まっすぐ後ろに転んだだけの姿勢ならきっと、彼女を痛めることは無かったはずで。)――〜〜…っ………、(ただし余り意識が回らなかった、自分の受身。ごちり、と軽い衝撃を受けた後頭部の痛みはじわじわと響く。それを散布するために顎を上げて、は、と喉の奥で息をすれば、緩く眉を寄せ―、一息ついてから、上に乗る彼女を、見下ろす。見えたのは黒い瞳か、分かれた旋毛か。)――……何を…、してるの。(呆れたような声音で問いかけた言葉は、途切れ途切れに呼吸を挟む。彼女の頭に添えられただけの手は未だ退ける事は無く、もう片方の手で接触した自分の頭を撫ぜて、痛みを堪える様な、不機嫌な様な、寄せられた眉の真意はどちらも半々といったところか―。)

一緒にいる方がいいなって。あー、あやべ先輩隠れるの上手そう…
千曲若葉(他人の反応に一喜一憂する姿は、恐らく千曲は、他の者よりも顕著だったのではないだろうか。大袈裟とも言える反応は千曲の持ち味でもあったし、考えるまでもなく動けていた。―今までは。だと言うのに、近頃は彼のことばかりが頭の中でちらついて離れなくて、考えなくても動けていたことが、考えても分からなくて。いつの間にか自身の中でそんなにも大きな存在になっていた彼との対面を、一言で言うならば、動揺、に尽きた。会いたかったのに、会って、その先が分からないから――それでも身体は正直で。ずっと、ずっと暖めていた勢いを曝け出すように、―渾身の、一撃となった、のだろうか。考えなしの行動で、倒れる―と感じた頃にはもう遅く。ぎゅっと目を閉じて、触れた温もりに場違いに安堵しながら、彼のシャツに、きつく握った手が皺を作る。ままに、ごん、と聞いた鈍い音は何だ――。そろりと睫毛をあげながら、ゆっくりと頭を上げれば、細い黒が緩やかな線を描いて頬に落ちる。)…あやべ、せんぱい。(無意識に、うわ言の様に彼の名を紡ぐ。吐息がかかりそうな程直ぐ側にあった端正な顔立ちに、とくりとくり、鼓動の音を早めながら、耳にした語尾の上がらない問いに、はっと今の体勢―自身が彼を飛び付き倒してしまったこと―に気付いて、先程の鈍い音の正体を思い返せば、片手を冷たい廊下について身を起こしかけた中途半端な姿勢のまま、おろおろ、もう片方の手を、彼の頭に伸ばしかけた途中で彷徨わせて、)ふあ、ごめんなさっ…!いまの、頭…!ごめんなさい大丈夫ですか、ごめんなさい!(今度はまた違う意味でどうしたらいいのか分からなくて、それでもこんな時に触れる温もりから離れたくないなんて同時に感じている自身が恥ずかしくて、繰り返す謝罪から、ふと、動きが止まれば、)――…………ごめん、な、さい…。(それまでとは違う、落ちた音色。現状に対してじゃなくて、ずっと謝りたかった、あの日崩れてしまった、自分達の、関係性についての謝罪。眉を下げて、羞恥や情けなさや混乱や、様々な思惑が渦巻いた瞳はじわり今にも泣きそうに滲んで、それでも、きゅっと一度深く目を閉じたなら、次に彼を映すのは、意思の篭った彼女らしく馬鹿正直な瞳―)綾部せんぱい。今から、ほんとのこと全部言うから、逃げないで、聞いてください。もう私のことやになってるかもしれないけど、…私は、こんな、綾部せんぱいとちゃんと話せないの、つらいから、ちゃんと、思ってること、言わせてください。(逃げられているけど、避けられてはいない。それは、ここ数日で感じたことで、まだ、彼から離れきっていないことだと思えたから。もやもやと胸の内で渦巻く暗黒星雲を吹き飛ばす為に、真っ直ぐ彼を見つめる瞳は、それでも微かに、不安に揺れていただろう―)

…一人ばっかりだと退屈だから?、…上手。プロ級。
綾部喜八郎(踏み損ねた足は挫いてはいないだろうけれど少し捻ったのか鈍く痛いし、いうまでも無くぶつけた頭は痛いし、背中も衝撃を全吸収してくれるほど制服は万能ではない―上に、呼吸を繰り返すたびに少しずつ体温が廊下に逃げているような気がする冷たさを背中に感じる。グラウンドに寝転ぶのは日常茶飯事だが、廊下は中々経験に無い。―痛みを和らげる為に眉を寄せて息を逃がしている時に聞こえてきた、声を掛けられているわけではないように感じられる自分の名の音―わざと、ワンテンポ遅れてから彼女視線を向けて声を掛けたのは、痛みから来る苛立ちを無意識に諌めていった彼女の声の音が心地良かった事を打ち隠すという、きっと自分にしか分からないだろう妙なプライドの表れで。――受け止めたときから彼女の後頭部に添えられていた片手は、彼女が姿勢を起こそうとすればひっかかりもなくするりと落ち、そのまま、痛む自分の頭に向けて伸ばされたその手に触れて、中途半端に浮いたままだった手を戻させようと少し力を込めて押す。)―…いい。…怪我が 無いなら。(良いからと、繰り返される謝罪を拒むように瞳を伏せて、首を微かに揺らす。その所為でまた確かにずきりと頭が痛みはしたが、相手に怪我が無さそうならば十分だとどこか安堵している気持ちがあるのを心中で感じるから、恐らくシンプルなその行為も普段より柔らかく感じられただろうか。千曲に怪我がないのなら、と省略された言葉の所為でいっそきちんと意図が伝わっているかすら曖昧だけれど。、繰り返された謝罪の最後に一つ、色が違うものを感じれば伏せていた睫毛を起こし、彼女を見上げる。普段とは角度の違う、落ちた前髪が流れるのに沿って視線を上げていけば、髪にまぎれた黒い深い瞳と目が合う。、そこに滲んだ揺らぎの波に誘われるかのように、波の表面だけを撫ぜるかのようにはゆりと綾部の瞳も揺れる。本当に微かなそれは、恐らくきゅうと閉じた瞳を開いた頃には、もう波が立った気配すら感じさせないだろう、揺らぎ。続く彼女の言葉を聴けば、薄い色一杯に黒を受け止めながら、身を起こそうかと廊下に立てていた肘を一度止める。中途半端なその姿勢のまま、常から余り真面目には開いていない瞳を、普段よりも細めて相手の瞳を覗き込む。真意のつかめない相手の気持ちをそうして探ろうとして―も、その黒く深い色から自分が感じ取れるのは飾り気の無い真っ直ぐな気持ちと、先程自分の中に波紋を呼んだのと同じ、小さな不安のカケラのもと。隠すのが上手なのではなくて、表すのが上手なのだろうと、真実だけを悟る。―数秒の沈黙は、やけに長く感じられたかもしれないが、とすん、と立てていた肘を崩せば、背中を廊下へと預ける。図らずして近づいていた距離が少し遠ざかって、頬を掠めるように黒が離れていけば、ふ、とそこで漸く息が吐けて、結果的に自分が呼吸を忘れていた事を悟る―心音が乱れてるのはきっとそれだけの所為だと自分に一言言い訳を架してから、)………いいよ。、きいてあげる。……なぁに。(くるりとした瞳が、上目に彼女を見上げる。起き上がることを放棄しているのか完全に方膝を立てて転がったまま、片手でちょいちょいと目に掛かる前髪を整えるくらいには、ここが廊下だということも背中に感じる冷たさも気にしていないかのようなその態度。下から見上げている態度でありながら、逃げ回っていたのは自分でありながら、正面から真っ直ぐな視線を受け止めて、その上での物言い。度胸がある―と言うよりもむしろ、開き直りや、居座りに近い心境かも知れない。―どんな言葉が来るか分からない。漠然とした恐怖の様な渦を胸に、こくりと一度息を飲んで、―きっと、瞳に不安の影がちらつくのは、お互い様、だ。)

退屈だし、ちょっと寂しいです!…呼んだら出てきてくれますか?
千曲若葉(擦り剥いていた足にじわりと伝わる廊下の冷たさが、じわじわと体温を奪っていたけど、純粋に駆け回った直後だから、それとも彼に近いこの距離の所為か、身体中の血の巡りが速い気がするじくじくと痛むくらいの体温の高さには、触れた冷気の面は心地よくて。頭の中の空白は、彼に言葉をかけるまでの丸々の空白と同じくらいにぽっかりと。かちり、と漸く合った視線にくるくる頭の周りを混乱のままに浮かんでいた意識が引き戻されれば、慌てた謝罪に、まず返ってきたのは静止の手の平。ほんの少し、拒まれた気がして挫けかけたけど、紡がれた音が持つ意味を、察せるくらいには彼の側にいたのだから。返ってくるのが文句ではなく、自身を心配する声だったと分かるだけで、やっぱり容易く気分は浮上させられてしまうのか。それでもまるで縋るように、その手の平をきゅっと掴んで。いつも以上に鈍い頭は、返す言葉を霞みの中から探し出すのもやっとな状態で、ありがとうの一言すら、搾り出せずにいたのだけど。それでも、一度蓋が開いてしまえばとろとろと零れ落ちていく言葉たち。それしか出来ないから、ただ真剣に、彼へと言葉を届けて、いけば―ぱたり、倒れた彼から聞こえた三文字が、胸に安堵を広げて、深く深く息を吐いて―反対に得ようとして肺を満たしていく空気に、千曲もいつの間にか息を詰めていたことに気付いて、もう一度、深呼吸を繰り返した。そのままの体勢で無意識にく、と顎を引いてしまえばまた髪が肩から滑り落ちて揺れる。けれど俯かないように、ゆっくり顔を上げて、まあるい瞳はぶれることなく、)―私は、綾部先輩のことが、すきです。(大事に大事に暖めていた感情は、大切に、それでいて何の抵抗もなく簡単に唇から零れ落ちた。頭が弱い自覚はある。全部聞いてもらおうと思えばきっと、受け止めてくれるだろうけど、途方もないことになりそうで、一番、伝えたいことをと考えてみれば、真っ先に、当然のようにそれが輝いていた。―汗ばんだ手の平は、消えない不安をやり過ごす為に握っていた力を強くして。言い訳なんか全部取っ払って、伝えられたことに微かに滲む安堵の所為か、ふにゃりと、いつもの気の抜けた笑みが、すぐにも浮かんできてしまったけど、下がった眉は誤魔化せない。次々に溢れて零れてしまいそうな感情が、じんわり瞳に熱として集まってきてしまっていたけど、―泣いちゃ、駄目だ。繋ぎ止める意地だけが、千曲の背中を支えているように、)スパイについては、また学園長の思い付きかーって思ったけど、ごっこ遊びみたいな気分でかっこいいなって、それで受けちゃったのは本当なので、言い訳しません。ごめんなさい。―でも、お遊びはお遊びだから、真剣に弱味を探そうとしてたかって言われると、そうじゃなかったです。(「あ。食べ物の好き嫌いなら、ちょっと分かるようになりましたけど、」なんて誇らしげに、冗談めかして―けれど、スパイとしての成果は精々そんなところ。正に“スパイごっこ”と呼ぶに相応しい程度のもので、あんまり、悪びれるつもりもなくて。そんな日々を振り返れば、胸の内が、熱く震える、)―私、いろんな人と仲良くなれるのが、うれしかったんです。浦風とも、前までそんなにたくさん話すんじゃなかったんですよ!あやべ先輩がいたから……、あやべ先輩のこと、弱味とかじゃなくて、たくさん知りたくなってたから、あやべ先輩の側にいました。下心はあっても、悪意はなかったです。(順番に、順番に。拙い言葉回しではあったけど、はにかむように、楽しそうに、一生懸命伝えていく。脳裏で走馬灯のように駆け巡る思い出の意味は、きっと千曲が弱気になっている証拠で。耳の奥で、先程校舎の隅で聞いた、冷ややかな彼の声を思い出す。「だから…、」と続きを紡ごうとする唇が震えて、上手く届かなかったかもしれないけど、最後まで紡ごうと、息を、音を、搾り出す。ぼたり、不意に、彼の胸にまあるい染みを、作りながら―彼の手を掴んでいた右手を、慌てて空にして自身の目を隠せば、袖をきつく目に押し当てた―)…すきなのは、うそじゃないんです、ごめんなさい。やな思いさせるとか、そこまで考えられなかっ…、……ばかでごめんなさい。たくさん困らせて、いっつも滅茶苦茶で、ごめんなさい。(これ以上困らせないように、なんて思いがなんとか溢れる涙を堪えさせる。じわじわ冷たくなっていく袖口に気付いて誤魔化すように言葉ははっきりと紡いだけど、途切れて、震えて、それでも続けて――漸く、深く、震える冷気を吸い込めば。腕を外した顔から現れるのは、全部抱えて誇らしそうな、穏やかな笑み。大丈夫、これで間違ってないと、内心言い聞かせながら、)あやべ先輩。私ずっと、ほんとに、楽しかったです。ありがとうございました。――あやべ先輩は、私にとって、お星さまみたいな人でした。(ずっとずっと、追いかけてばかりだった気がする。簡単に掴めそうなのに、手を伸ばしたら、遠くにある。近くて遠い、不思議な距離感。ガーネット・スターのような成り損ないの標を辿るように、紡いだ言葉は不恰好だったけど、伝えられたという事実に、すとんと満足感が収まって―、)

…やっぱりよく分からないけど。…隠れんぼ中に?いや。探して。
綾部喜八郎(握られた手のひらの熱さに指先が微かに強張る。そこまで積極的に動いていたわけでは無い綾部の体温は季節が冬なのもあって決して温かくは無くひんやりとしたその指先に、じわりしみこんで来るその熱さにもにた体温。じわりと麻痺したように痺れが走る。溶かされていく、絆されていく、解されていく、心地良さと居心地の悪さの同居―。―最早顔面の筋肉が仕事をサボっているとしか思えないような表情の変化の無さは、だが瞳の揺らぎまでを隠すことは無い。ふわり、ふわり、とらえどころ無く揺らぐ薄色が肩口から零れる髪先を視界の端で捕らえ、呼吸に合わせて揺れるだけのまつげの動きさえ見逃さないように瞬きの無い瞳―。―それに零れ落ちてきたのは、何も飾ることの無い言葉。とんとありふれた、けれど初めて聞くような透明さを含んだその音は高い所から低い所へ、零れるままに降り注ぐ。浮べられた笑みの普遍性と、いつもと違う下げられた眉の差に、ほんの少し、瞳が強張って髪と同じ色の薄い瞳がぴしりと揺れた。逸らさずに見つめたままのかみ合う瞳はそこに零れることは無くとも溜まる熱い水に気付ける程度には敏いけれど、手を伸ばすことはしない、できない。触れ合ったままの手と手の間に篭る熱はどちらの発したものなのか。息すら忘れたかのように、ひくりともしない喉は相槌すら沈黙すら無く、異常なほどの静寂を持って彼女を見つめる。休憩を挟むかのように浮べられた冗談に笑みにすら、先程までと同じような表情を浮べたままに。ひとつひとつ、絵本をはじめからめくるように日々を振り返る言葉に、ひとつひとつを思い出す。始めはそう楽しいものではなかった、遠くから見られるのが疎ましくて、それなら管理できる手元にいたほうが便利だというそんな理由で。興味があったわけでもない、始まりは隣に居るだけだった違和感が、順に馴染んで、傍に馴染んで。簡単な事なのに、説明は出来ない。感覚的な感覚。緩く弾むような口調とは対照的に、楽しかった なんていう思い出が綾部にあるわけではない―ただすべてを突き抜けて突き通して透き通って、隣に彼女が在るのが普通、に変化した。変化していた。あの時までは。震える唇の動きに、はたりと落ちてくる雫の一滴すら目で終えた。解放された筈の指先が、しかし重力にあがらってその場に留まる。迷うように揺れた指先が、最終的にはじわりと服越しに胸を濡らすような錯覚を覚えさせるそこを覆うように自分の胸元に添えられる。彼女の袖の先の色が変わっているのだろう事は想像に容易くとも、そこを無理矢理に開くような真似は出来なくて、彼女からその扉を崩すのを、ただ一度名を呼ぶことで待つ。何度も何度も、何度も何度も繰り返される謝罪を遮るように、一度だけ、けれど先とは違って確かな音になる三文字、ちくま、と、呼ぶ声は、綾部ですら意外なほど穏やかな声音で――。―再び垣間見た黒色を湛えた瞳が浮べていたのは、笑顔だった事は隠さず予想外で、とつとつと述べられた言葉もどれも、予想外だった。誇らしげで満足げで充実したような、―そんな笑み。けれど、その笑顔の宛てられた綾部の浮べる表情は、対照的にきゅうと、歪む。寄せた眉と細めた瞳は、堪える様な色を持ち、一度ゆるりと首を降ったのなら、)――…嬉しくない、全然。(声は、思ったよりも強張ってはいなかった。ただ少しだけ感情を乗せた、そんな音で、息を吸えばまだまだ、零れる、)…何万光年も離れた所で触れ合うことすら出来なくて冷たい位に熱くて声を掛けても届かなくて太陽の光が無いと光れないような星と私の同じところなんて千曲に好かれてるところくらいでしょう?(噛むことも息継ぎすらしていないかのようにするすると唇から饒舌に言葉が零れ落ちる。絶対的に確信した口調で最後を締めくくれば漸くに深く息を吸う。微かに伏せた睫毛がひくりと揺れて、言葉とは対照的に避けることすら容易な速度と強さで、胸元の水滴の跡を覆っていた指先が伸ばされる。一瞬躊躇った爪先が頬に触れて、つうと穏やかに釣りあがった唇をなぞり、)―…ねえ、千曲、どうして千曲は、笑っているの。(今まで見たことの無いような、穏やかさを含んだ笑顔に、睫毛が震え、完結を告げる最後の文字が打ち終わられそうな気配に背筋が廊下以上の冷たさを持って凍る。泥気のない指先は唇を一周したところでぱたりと自分の胸元に重力に引かれて落ち、喉を通る空気がひゅうと泣きそうに情けなく響いた。)……私は。好きだと気付いて、好きだと言われて、―…そうして告げられたありがとうとさようならに、…とても、泣きたいのに。(―でした。ました。過去形で綴られる言葉は総てがお別れの言葉に、最終章の言葉に、聞こえる。懐いてきた小鳥に指先を差し出したら羽ばたかれた様な行き場の無い、無色透明。日頃から飾る事の少ない言葉が更に無防備に、思うが侭に音を響かせる。ただ、寂しい、と―)

んん、説明は難しいです。…み、見つかるとこいてくださいね!
千曲若葉(――精一杯を伝えたつもりだった。伝えて、だからどうこうしたいとまでは考え及んでなくて。だから、大切なだいすきと、後悔の募ったごめんなさいを告げられれば、それだけで、すごくすごく、満足で―返事が来るのだと、気付いたのは彼が歪めた眉に、視線を移してからだった。そして同時に―その表情が意味するところを予想して、つきり、胸が痛む。聞きたくないなんて、言えなかった。言う暇もなかった。嬉しくない、と、紡がれたそれは、確かに否定で、暖めていた感情に、傷が走るような、痛み。緩く首を揺らされた言葉を、けれども聞かなくてはいけない、と懺悔の念が引き止めて、つらつら零される、彼にしては珍しい量の言葉達を―どう受け取ればいいのか、分からなくて、不安げに、瞳が揺れた。頭の回転速度を無理矢理上げて、嬉しくないのは、自身が気持ちを伝えたことじゃなくて、星にたとえた、こと、のようで――ぽっと、薄い灯りが、胸に点る。やさしく触れる指先に、こくりと喉を鳴らして、不安なのか、期待なのか、よく分からない感情はぐるぐると頭の中も混ぜこぜにしていて。―どうして?心内で彼の言葉を反芻していれば、触れていた彼の指先が落ちて、耳に届く震える呼気すら、愛しくて、恋しくて。―鎖骨に付くほど深く、顎を引いて、俯けば、表情を隠し切るくらいに、髪が落ちて――ぐっと、浸ったのは、数秒。ぱっと髪を揺らして顔を上げれば、情けない笑顔を、もう一度浮かべて、)―じゃあ、やっぱりたくさん笑います!あやべ先輩の分も、しあわせなんだよって、いっぱい伝えたいから。うれしいもたのしいも、伝えたいから。(乱れて頬に引っかかった髪を、空いた手で梳いて、直せば、自身が笑う理由を告げる声はやっぱり誇らしくて、「―あやべせんぱいは、楽しくなかったですか…?」控えめに付け足した言葉は、思っていたよりもか細く、落ち着いた声で響いて、胸の中で暖まっていく。そろりと伸ばした手の平を、やさしく彼の頭に降らせて、ふわり柔らかな髪のように、ゆっくりと、二、三度、撫で、て―、)だから、泣かないでください。あやべ先輩にかなしい顔させるの、やですから、――…これからも、会いに行っていいんですか?一緒にお弁当食べたり、お話聞いてもらったり、穴掘り見守ったり、まだずっと、たくさんたくさん、やりたいことあるんです。私、ほんとはわがままなんですよ。一緒にいたら、今までよりもっと、困らせるかもしれませんよ?(こんな時に、こんな事を言うのは、少し、ずるいのかもしれない。けれど、日に日に募っていく想いは、止まることを知らないように燻っているだけで終わってくれないから、)ちゃんと、伝わって、ますか?私のすきは、さぶろー先輩とか浦風とか、先輩とか友達のすきじゃないんですよ?(言葉が上手く回らなくて、改めて、そんな確認をしてしまう。かっこ悪さから眉が八の字に垂れて、胸が震える。「たとえば、キスしてほしいって言ったら、叶えてくれますか?」なんて、震えた声に、視線が逸れる。欲深さを恥ずかしいとは思わないけど、困らせるのではないかと言う心配は拭えない。それでも、やっぱり千曲の頭で考え付く明確な恋愛の形で、辿り着くのはそこだったから。言葉にしてしまえばじわじわ頬に羞恥が集まる。彼の方も見られないまま、「…な!なんて!」と、付け足してしまった誤魔化す言葉は大袈裟に響いた気がした―、)

まあ、千曲は一人じゃないから心配は不要。…それは、楽しいの?
綾部喜八郎(自分の気持ちを表に出すのが苦手だ。だから言葉にせずとも経験で感じ取ってくれる作法委員会の面々や4年間それなりに親しい距離にいる友人の傍にいるのが気が楽で心地が良く、甘えやすかった。だから余り成長していない、自分の気持ちを伝えると言う行為の技術。ぐ、と顎を引いて表情を隠す彼女にはいったい自分の言いたかった事が伝わったのかどうかすら曖昧だ。どうしてどうして、返事を求めて渦巻く気持ちを抱えたまま――隠れていた表情が、隠されて、笑顔。震えるそれは、先程までの表情を推測させるには十分か。それでも、清々と紡がれる言葉はどれも、意地が悪いほどに真っ直ぐで、泣きそうに緩む瞳は依然そのまま。柔らかな問いにも、声を出して答える事はなく、出来なく。それでも、つとつとと、彼女の言葉は止まない―。―ついこの間までは日常だったそんなひとこまひとこまを、まるで全部が宝物かの様に羅列させる相手。ひとつひとつが走馬灯のように過って、場違いに胸の奥に暖かな物が生まれてくる。それと同時にふわりふわり、髪が撫ぜられれば、擽られている様な心地良さを感じてしまって。猫であればごろごろと喉を鳴らしていそうな柔らかさで、そうっと僅かに睫毛を半分ほど伏せる。心地良い柔らかさ。髪に触れた手に、胸元に落としていた手を触れさせる。重なるその手は普段通りひんやりとしていて―それなのに、爪先だけが不思議なほど熱かった。体温が全て爪先に宿っている様な、一つの中の温度差。ついと唇の端をほんの少しだけ釣り上げて細められた瞳には、黒が揺れて、)……私の方がずっと わがままだから。(大丈夫―なんて根拠のない台詞をひとつこぼす。小さなお願いは、もう今ではいっそ日常にすらなっていて、霞程も我儘だとは感じない。確認されるよう続けられた言葉には緩く眉が下がる。どこまでか鈍いと思われているのだろうか。)―……、知ってる、(そう告げた時の吸い込んだ息の喉を通る音は、先ほどよりも淡く火照っているのが自分でもわかる。その気持ちはよく分かると言うと語弊があるかも知れないけれど。委員会に抱く気持ちに同級生に抱く気持ち―両方を自分もまた同じように、そして彼女に負けず劣らずの強さで抱いている、ものだから。わかってる、と再び繰り返していれば、再び下がる、彼女の眉。揺れる声で紡がれた、言葉――予想外とも言える言葉に、ひたりと綾部の睫毛が揺れる。緩やかに染まっていく頬を瞬きもしないまま見つめる、半ば呆けていた様な状態を引き戻したのは、前言撤回を意図する言葉だった。嘘にしても下手すぎる、いつもいつも。いつも。ふ、と口元が緩んだのと、重ねていた彼女の手の平を引いたのは同時。自分の親指で一度一回りも二回りも小さなその手の平を撫ぜたのなら、引いた手をそのまま口元に寄せる。ちゅう、と意図的に軽い音を立ててひとつ口付ければ、瞳だけ、上目でちろりと相手を見上げ、)………私の分も笑うんじゃ、なかったの。(相手の手の平で口元を隠したまま、少し悪戯気に細められた瞳が、繕われた笑顔へ向けられて。「へたくそ。」と手の平に唇を寄せながらゆっくりと一音一音を区切って呟いた音は、紡いだ台詞の割りには案外と甘く響いただろうか。)、もっと、笑って。……私はもっと、とても、幸せだから。(するり、口を寄せていた手の指を絡ませて、自分の口元を隠す物が退く頃には、緩んでいた口元は普段の中途半端に開いた物に戻っていただろうか。そんな唇が紡ぐ言葉の質は、まるでおねだりに近い。口を突いたそれは音にしたら突然に真実味と現実味を綾部に運ぶ。そう、とても、―幸せ。ぱつり、睫毛が上下する。)―…恋しい、千曲―。(そう、囁いたのは、相手に聞こえていただろうか。返事を待たずに投げ出されていた片手がようやっと動いて、さらりと顔を隠す黒髪を纏める様に後ろに掬いあげる。耳の少し上に留められた片手、指先に少しだけ力を込めて―、引き寄せる。大した抵抗がなければ目を逸らさぬままにそのまま、直前、ようやっと目を瞑って―手の平にしたのと同じ。ままごとの様なキスを、一度だけ―)

へへ、まな先輩とかもいますしね!…見付からないよりは、きっと
千曲若葉(言葉少なな彼の感情を、少しでも分かるようになりたいと思ったのは常に無意識下で、いつの間にか、人の反応をよく観察するようになっていた。特に彼は、変化が微々たるものだから―けれど、段々と、その微かな変化が大きな主張のように感じられてきたのだから、きっと、自分はそれだけ彼のことを理解したかったのだと思う。それでも、全てが理解出来るなんて驕った感情は湧いて来ないで、推測の域を出ない不安が、常に影を潜めていた。元来ストレート過ぎる程に言葉を隠さない自身だからこそ、憶測を確かな物とする為には、言葉で、確認したくなって。―分からなくて、聞いても教えてもらえなくて、だから自分で察せるように努力して――答え合わせは、一人では出来ない。だからこそ、短くとも返ってくる彼の声が嬉しくて、嬉しくて、情けない顔が、更に情けなく歪みそうになるのを堪えながら、満たされていく気持ちは今にも溢れそうで、零れて、全身を覆いつくして尚、留まらずに居てくれるような、錯覚、だろうかも分からない、痺れた感覚。)……へへ。そうでした。(彼の方が我侭、なんて言葉も肯定してしまえる程にはいつの間にか近しく、だから彼の言う大丈夫には妙な説得力があって。ほっと胸を撫で付けるような優しさで。やわらかい、音が。耳に心地よくて、くすぐったくて、緩む頬がぽかぽか暖かさを保って、嬉しくて泣きそう、なんて初めてにも近い体験に、ず、と情けなく一度鼻を啜った。――ちょっと、調子に乗りすぎかもしれない。そんな考えが浮かんだ頃には視線はバタフライで逃げ出す勢いで、先程までとは違う色で目尻を染め上げる。本心だけど、何だか、本当に、中学生の癖に、こんな、何を、むしろこういうのは言うべきではない?そんな風に、ぶつぶつぐるぐる思考を巡らせていた中に、不意に引かれた手と共に彼に意識と視線が戻って――)、……〜〜、っ…、……!(冷たい廊下に響いた水音が、頬の火照りに加速を掛けて、続けられた言葉に、返す言葉を失ってしまった。意地の悪い言葉が、千曲の反論を喉の奥で詰まらせて、あうあうと音もなく口が無意味に開閉を繰り返して)へたっ…、――………やべせんぱ…、…ずるい、(甘い甘いおねだりを、断る術なんて、持っている訳がなくて。絡められた指先を、きゅっと握り返す。まだまだ、この人に敵う気がしなくて、心臓が煩くなり過ぎて感覚はどんどん麻痺していくばかりなのに、もっと側にいたくて、苦しくて、――繋いだ指先から、また一つ、恋になる。まだまだ、好きは足りないんだ。もっともっと、際限なく質量を増して、愛しさを作っていくのだから。)…っ、(髪を掬い上げて頬を擽る指先が、こそばゆくてほんの少し身を捩った―瞬間、ぐらりと導かれる身体がそのまま――彼までの距離を、零にした。そう長くもない、たった一瞬のことなのに―まるで少女漫画の主人公のような、静かに訪れた、幸福。今だけは、最高に可愛いヒロインに―お姫様に、なれていればいいと、思った―けど、)…キス、…ほんとにしちゃった、(むず痒い嬉しさが、呆けたような、感動しているような、曖昧に格好悪い呟きを漏らさせて、「…へへ、」なんて続いて零れた笑みは幸せそうにはにかんで、ほんの少し恥ずかしさを逃がすようにして―きっと、今自分は世界一幸せな気さえしてしまうから、彼と居れば、きっとこれからも、無敵に能天気な千曲若葉でいられる、なんて。こっそりそんなことを思いながら、指先を絡めあった手の平を、そっと自身の頬に寄せる。彼の手の甲に摺り寄せるように、大切そうに扱いながら、)あやべ先輩、…すきです。大好き。(もう一度、目を見て真っ直ぐと、そして今度は、不安なんて宿ることのない、得意げな笑みで、穏やかに、声を落とす。廊下で彼を押し倒しながら告げるなんて、あまり可愛い行為ではなかったかもしれないけど、そんな破天荒さも、自分達らしいと思ったりするのは、自惚れだなんて、思わなかったりもしたから。ロマンティックじゃなくっても、こんなに近くに彼がいる。たったそれだけで幸せだから。もっと笑顔になれるから。だから、ただただ我が儘に、もう少しだけ、彼の体温を側で感じていたいと願う。胸の中心に灯るポラリスは、きっとこれからも彼の姿を照らしてくれるから。迷わずに、進める。強くなれる。そう、指し示すように―それはまるで二人をやさしく見守っていた。恥ずかしそうに染まる緋色を隠す紫紺を引き連れた空に、煌いたのは、一番星――、)


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