(本日の日直として授業の教材の返却を頼まれた序でに借りていた本も返しに行こうと立ち上がったのは、休み時間が始まって直ぐの事。棟を移動する廊下が吹き曝しになっていないといえど、この時期は暖房機具のない場所へと制服にセーターを着ているだけで赴くのは些か肌寒い。自然早足になって用を済ませてゆき、―返却に寄っただけの足で図書室内に踏み入ったのは、借りたい書物が以前覗いた時になかったのを思い出したからであった。時間に余裕があるからと棚を覗いてはそこに目当てのものを見つけて、クリーム色の背表紙に指を引っ掛ける。哲学関係の書物がこの学園で需要がある事に驚く、なんて言ったら失礼なのだろうが、実際それに近い心境で手続きを済ませた分厚い本を片手に、暖房の効いた室内から踵を返して――2棟へと戻る道中に見慣れた金色が視界を掠めたのは、偶然といっていい。彼女も他の棟に行っていたのだろう、平素の弾むような足取りで進むのに合わせてふたつに括られている毛先が揺れているのが、見ていて面白い。悲しい事があれば犬の尾のように垂れたりしそうだ とはらしからぬ思考だけれど、半ば本気で思っている事でもあって。友人といたのであれば声を掛けずに見送ったその姿に近付いたのは、矢張り、らしくないのであろうか。自分のしたい事をする、したくない事はしない、そんな立花だから例え”変わった事”があってもそれが己の意思ならば厭う真似はしないし―そもそも嘗ての自分を思い返すのも難しい程、彼女とは頻繁に交流を交わしているのだから、今更でもある。距離を詰めて伸ばした手は、つん、その髪先を摘まんで相手の進行を妨げた、)…すまん、捕まえやすいからつい。(口元に上る微笑みは、意識せずとも浮かぶよう。目下のお気に入りを眼前に、「どこかに行っていたのか」と何気ない言葉を掛けながら、柔らかな毛を緩く指先に巻いては、戯れる―)
(厚着先生が呼んでいたから―と、向かった職員室で、小野原はここ数日は日常になってきたお小言をくどくどと聞かされた。成果が上がらないことに対する顧問からの言葉に対し、調査対象である彼を前にするとすぽーんと調査の事が抜けてしまう手前、珍しくも堂々と結果はともかく「頑張っています!」と告げることが出来なくて、しゅんと体を縮めて相槌のように小さく頷きながら説教を受ける。それでも暫くの後、ため息と共に、まあ嫌がる事無くやっているようだし―なんて甘やかすような事を告げられれば、ぱあと表情を明るくして。はしゃぎながら逐一を報告する姿は至極楽しそうだっただろうか―。―段々と、嬉しい楽しい幸せ…と、調査は如何したと眉間を押さえたくなる様な感想しか紡がなくなった所で、追い払われるかの様に職員室を追い出されれば、教室への道を歩む。今日は委員会するのかなー、なんて思考をよそっぽに注意力散漫に歩いていた為か、それとも元々の鈍さからか、近づいてきた相手にも気付かずに、)……わぁ、っ?!、―…と、立花くんかあ!、びっくりしたぁ。(くんっ、と軽い衝撃を受けて、立 ち止まる。引っ掛かったような感覚に反射的に振り返れば、もう見慣れたと言っ ても良いような笑みを浮かべた相手がそこにいて。びっくりした、との言葉に違えず大きく揺れていた瞳は途端、ご機嫌にはにっとした笑みへと変わる。「だいじょぶだよー」と引っ掛かった後頭部を軽く撫ぜていれば、捉えた後も毛先から離れない指先に一瞬視線が落ちるも、意識が向く前に問いかけられた言葉に、ふいと視線を上げて、)うん、厚着先生に呼ばれてたのー。怒られて、…て…、えと、…(先程まで話していた内容が内容なだけに勝手に気まずくて、話題を変えなければと視線を巡らせた所で彼の手の中の本に気付けば、身近でないその分厚さにぱち、ぱち、と瞬いて、)…立花くんは図書室帰り?……む…むつかしそう、な、………ほん…?(辞書じゃないよね?と続きそうな疑問符のくっついた、それでいて真剣なその言葉―。―それまでは、髪が、絡んだ指先から離れぬようにと控えめにしか動けなく。しかし唐突にスイッチが入った事を知らせるノイズが廊下に響けば、それに反応するように反射的にスピーカーを見上げてしまった。柔らかにしか触れていないのならば、細い髪先が最後に指先を撫ぜてそこから離れていくのはそう難しくは無かっただろう―)
ザ――…
(小さくノイズが聞こえたかと思えば、言い争っているのだろう声は、殊更大きく響いた)
何じゃ!スパイ活動くらいどの委員会もみんなやっておるじゃろ!
(驚く顧問達の声は誰が聞いても肯定であっただろう)
(そして駆け付けた放送を知らせる声によって、乱暴に放送の電源は切られた――)
…ブッ――
(人が好いというか何というか、そういえば彼女の怒った顔は見ないな、等と導火線の短い友人と比較しつつ、それが男女に対する戯れの差なのだと突っ込んでくれる者はここにはいないのだけれど。振り向いて驚愕に開いた瞳が微笑むのを間近にして、此方も満足気に目尻を緩めよう。擦り寄ってくる動物の毛並みを撫でるような、或いはそれよりも慈しむように、苦情が飛んでこようものなら一層執拗になっただろう指先は彼女が抵抗しないのをいい事に毛先を擽って。体育委員顧問の名と言い淀む声で、大方の見当は付くから、)小平太だけでも手に余るというのに、お前まで苦労をかけたら厚着先生も土井先生の二の舞だぞ。少しは労わってやれよ、(なんて、当たり障りなく神経性胃炎持ちだと実しやかに囁かれている教員を軽い調子で引き合いに出しては、話を逸らしたがっている彼女の意を汲み、己の片手に収まっている書へと視線を落とそうか。まざまざと語尾の上がった疑問は予想の真ん中を突いてくるものだから、喉を震わせて首肯をひとつ。)ああ、本だよ、哲学書。ハイデッガーと言っても知らないと思うが…、辞書でない事は確かだな。(厚みは似たようなものだが、と続けたその声が不自然に途切れたのは、スピーカーから流れる音を拾ったからだった。砂嵐のノイズと、脈絡のない―けれど一部の者にとっては核心を揺るがされる程の事実。――立花が瞠目したのは一瞬の事、強張りは直ぐに解けて、己の掌からこぼれる金色と共に溜息が落ちる。今の放送の問題を指摘するならば学園長の浅はかさは勿論、周囲の教師の反応も頂けなかったのは明らかだ、)…本当に、何故あの人はああも騒動を引き起こすのだか……。(嘆く口振りであっても、それはしようがないと言いたげに親しみの篭った色を添えていて―作法でも一人、調査に出ている後輩の顔が咄嗟に浮かび、そして描かれるのは彼女の調査相手。今の放送を聞かずとも彼ならば最初から薄々と察していてもおかしくないものの、委員長としてそれを承知で顧問に持ちかけられた話を承諾しているから、彼女の存在で少しでも調子が狂わされてくれたのならば御の字である。彼女自身が”弱み”になってくれれば言う事はないのだけれど―と、馳せていた思考がいつの間にか己と彼女にオーバーラップしてしまえば、「……潮時だな」、潔く呟いた声は彼女にも届いたはず。)―なあ、小野原。私は公私を混同するほど阿呆じゃない、今迄もこれからも、お前達の利になるような事は吐くまいよ。(その口元に刻まれるは、柔和な笑み。優しい、優しい、けれど―とても他人行儀な、)…公になったら意味がない行為だ、恐らくもう調査をする必要はなくなるだろう。これ以上無駄な時間を過ごさずに済んで、よかったな?(向けた事のない悪辣な言葉を選んだのは、態と。調査として機能していない云々は別にして、互いにとって二人でいた時間が”無駄”ではないと分かって敢えてその単語を示したのも、態と。字面だけで捉えるのならば立花が彼女と過ごした時間は”無駄”だと断じて、意識的に本心を隠した儘、冴えた瞳で相手の反応を逃すまいと見下ろすのは獲物が罠に掛かる初めの一歩を待つ心境に似ていて――狡いと謗られようが、必要であれば己の感情すら手持ちの札に変えて武器にするのが彼である。―さて、賽の目の行方はすべて彼女の出方次第、)
(引き合いに出された、1年は組の担任教師の聞いたことのある噂。笑い声を零せば、「気をつける!」なんて真実味の薄い本気の声で告げたりして。手が掛かるのが最上級生2名だと言う事実それだけで、頭痛の原因の一つにはなっていそうだけれど―。―不自然だった話題の転換も、それに合わせて貰えればそこまで不自然で無かったのだと小野原の中では片付く。本だ、と言われるまでは、辞書や事典かも知れない―という可能性を、頭の片隅に置いていたのだけれど、)……ぅはぁ…。…テツが苦笑…は、胃でっかぁ…かぁ…。(知らないと、の部分では素直に頷くも、彼が読む本、というだけで少しは興味が向くのか、聞き慣れない単語を出来るだけ近そうな単語に脳内置換して反復する。似てはいるが明らかに発音の違う言葉で繰り返す様子からは、理解をしているとは言い難い事は分かり易かった。活字と言えば教科書ぐらいしか追わないものだから、難しいなぁ、と素直な感想を抱いて―。―立花の言葉が途切れるのに遅れること数瞬、小野原は乱れた音を放つスピーカーを見上げていた。網越しのマイクから聞こえてくる聞き取り辛い言い争いは、何故か胸に小波を立てる。無自覚に思わず吸う事も吐く事も出来ず息を留めて―そんな中聞えて来たのは、“どの委員会も。みんな。”―そんな学園長の言葉。今まで学園長を責めていた聞き慣れた声にも、動揺が走る。それを廊下でこうして聞いていた小野原は、タイミングの悪さもあって、右から入った音が左から抜けていくように、呆然と瞬いたまま微動だに出来なかった。何の実感も湧かないまま瞬きを繰り返す―彼の言葉に、少しだけ心此処に在らずな声で「、ほんとだ ねぇ、」と条件反射のように返事だけを零して。視線は未だスピーカーに縫い付けられたまま。――立花の呟いた言葉は、障害なく小野原の耳に響く。びくりと肩が跳ねるのは、名前を呼ばれた時だ。おそる おそる、視線を彼の方へとおろし、)―……た ちばな、くん…。(決して聡くない小野原だけれど、立花の笑みの違いは感じ取れて。結果、何かに負けたかの様に、じり、と踵が微かに後退し。彼の言葉を聞く度、ひとつひとつに駄々をこねる様に首が、左右に揺れる。言ってる事は正しいと、思う。恐らく優秀で真っ当な調査員なら、そう理解すべきである、所なのだという事にも、頭は追いついた。のに。)……っ、…そ、…そう じゃぁ、な…。…ぅ、無 駄と、か…!(無駄とかじゃなくて、義務とかじゃないんだ―、と声を大にして言えないのは、根底にある どちらにせよ彼を騙していた事に違いは無い という事実の所為だ。躓きながら言葉を紡げば、込み上げてきた涙を隠すように目を細め、瞬きの回数を減らした。確かな距離を感じた態度に、余計、身動きが取り辛い。怒られるのも、嫌われるのも、素直に怖くて、きゅう、と結んだ唇―。―瞳の中、表面張力で張っていた水滴は、最後の最後で睫毛にしがみついて、そう簡単には落ちて頬を伝わらない。細かく細かく震える睫毛がゆらゆらと水面を揺らして、視界もまるで水底から見上げている様な、不思議な浮遊感と、絶対的な空気の差。吸い込んだ息に溺れそうだった。肩に垂れた自分の髪を指先が撫ぜるのは、つい先ほどまでそこに振れていた相手の痕跡に頼るように、縋る様に、そんな無意識な行動だった。相手の言葉と、笑顔と、沈黙に、表情はふちゃりと潰れて。ふるり、首を振りながら視線をそらす、)……違う、んだよ、…・だって、…。…だって、きっと、スパイとかじゃなくて、アタシ、たくさん…、(――後半になるほど饒舌に、そう、紡いでいた言葉の最後と重なるように、先程から沈黙を守っていたスピーカーが普段通りの本鈴を介入させてきた。あまりにも普段通りすぎるその音はこの場に不釣り合いなほどの日常を運んできて、思わず言葉を途切らせてしまって―、勝手にとはいえ、遮られた言葉に、諦めたかのように眉が下がった。背水で窮鼠な気分なのに、ギリギリで猫を噛むような力は、どこへいったんだろか。どうしていいか分からなくなるほどぐるぐるとして、立ち止まりたいのに、駆け出したくなる様な焦燥感を覚える。チャイムが響き終えれば、音をたてないように一度鼻をすすって、「…ほんれ、が、」と呟いたのは、きっとそんな逃げ出したい気持ちの所為―。それでも、動くタイミングがつかめなくて。自身の指先を、何かを守る様、きゅうと手と手を握り合っている姿が崩れるのは、結局きっとこの空気が乱れた後―。)
(此方の言葉通りの音をなぞる声は然し、突っ込む気が失せる位に明らかに不自然な発音だった。幼子が意味も解さず外来語をなぞる様に似ていて、ああ絶対分かっていないな、と和む胸中で小さく噴出したなら、)読書家という程でもないが、嫌いではないしジャンル問わず読む方だな。…お前はそんな調子で読書感想文、書けていたのか?(中学三年間の夏に義務付けられている宿題を思えば、自然とその首が傾いで艶やかな黒髪を揺らす。彼にとって読書は楽しむ物というより知識を蓄える為の手段に過ぎず、近くに人がいる時は本よりもそちらを構う優先順位であるから、この借り物も早くても帰宅後に手を付ける事になるのだろうけれど――台風が過ぎたあとの、静けさ。奇妙な空気の大半が彼女によって醸し出されている。それもその筈、正直な性根を考慮すればその動揺や混乱が表立っている風体も不自然ではなく、虚ろにすら聞こえる生返事に、そもそもの人選が間違っているともう何度思ったか知れぬ事を胸のうちで呟いた。彼女のような人間が諜報に向く訳がない。茶番だったな、と、にがにがしい棘の矛先は彼女ではなく己に向いているからこそ、呆れてもなお足りない響きで立花の心に波紋を描いた。後退する足、揺れる顔―調査されている側は此方だったというのに、正面の彼女が追い詰められている獲物の様相をするから、微笑みがいびつに染まって―)何故?調査のために近付いたスパイにとって、収穫を得ない時間は無為なものだろう?可笑しなことを言うね、お前は。(くすくすと感情の篭らない声が空気を震わせる事で、更に怯えさせるだろうか。知能的戦略を得手とする彼にとって諜報作戦は認めて然るべきものだし、嫌っているのだったら最初から構いはしない。けれどそれらを匂わせる仕草を一つも見せないで、万華鏡のように目まぐるしく感情の色を変えて活き活きとしている双眸が潤むのを、観察する眼差しで静かに受け止めるのだ。今にもこぼれ落ちそうな雫を眦に溜めるかんばせに、初めて目にする表情だと罪悪感なく内側で囁いて本格的な泣き顔にさせてみようか疼く嗜虐性は、大概歪んでいよう。悪い癖だとも、自覚している。ただ、彼女に限った事ではないが、そういう自覚があるからこそ何処まで自分に付き合えるかと試してみたくなるのが性というもので―いっそ逃げ出してくれれば、気が楽になったのやもしれない。そうしない彼女は尚も否定したがる表れなのか首を振り、精彩の欠いた面持ちで言葉を重ねようとするのを遮る、本鈴。話し込んでいた事にようやっと気が付く程には彼も此方へと意識が集中していた証拠で、気が削がれて微かな息を吐いた。)……要領を得ないな。義務でなく私に絆されたと言いたいのなら、お前の懐っこい質の所為だろう。そこに意味なんてないさ。(言い聞かせるように、突き放すように、追い詰めるように。淡々と紡ぎながら少し離れた距離を一歩で詰めれば―ちぐはぐな言動で、伸ばした指先が風がほおを撫でる柔らかさで彼女の眦に触れて、宥める、)…もしも他に理由があるというなら、その時は覚悟を決めて――お前の足で、私のところにおいで。(泣かせた罪滅ぼしに一度だけ機会をやろうと眉尻を落とした囁きは、密やかに彼女の元に届く筈。今迄のやり取りで、自分がどういう人間かを相手も思い知ったろう。これで距離を取られるのだったら所詮この関係は此処までだったと、今ならまだ引き返せるのだと暗に告げて―スパイの件による動揺はなくても、遂に明るみになった事により彼女が離れていくのかもしれないという可能性には首筋の辺りにひやりと寒気が上ったなんて、悟られたくはない。眦から下りて丁寧に金の髪を掬った手を離した立花は、初めて正面きって言葉を交わしたあの昼と同じく隣に並び立ちはせず、そのまま横をすり抜けて教室への道を辿る。遅刻は確定だったが急ぐ気もせず、階段をのぼりながら、ふと立ち止まって伏せた視線の先。こわごわとした瞳が耐えていた涙を掬った指へと、そうっと、静かに、乞うように唇を寄せた――。)
(こんなにも分厚い未知の書物を前に読書家ではないと言われれば、いかに自分がそう言った方面と縁が薄いのか改めて感じる。そんな事を考えている中で、読書感想文への心配の様でいてそうでないのだろう言葉を掛けられたのなら、ぱちんと一度瞬いてから、おろ、と一度視線を逸らす。本当のことを告げるか迷う様に視線を揺るがしてから、えへ、と気まずそうな笑みを浮かべれば、)……ちょーじ、読書家、なんだよ。(―と、結局は答えに近しいものを。「でも、こへーたもやってた!」と友人の罪も勝手に同時に暴きつつ。――空気がやけに澄んでいる様に感じる、心地の良くない、刺すような透明感。自分よりも放送による動揺の見えない相手の浮かべた笑みが、ぞわりと背筋を撫ぜた。言葉を交わす時に微かな高揚を伴う緊張感を感じた事はあったけれど、青色をした恐怖は初めてで。感情がたまってたまって、涙と一緒に零れおちてしまえば良いのに、こんな事になった今でさえ まだ、なんて望んでいるのか、溢れそうな水滴はずっと揺らめいたままに。ちがうの、なんて言葉は声にもならない。痛みを耐える様にきゅうとしかめられた表情は左右に揺れるだけだった―。―鳴り響いた本鈴に、進路を絶たれた気すらした。彼からは決して珍しくない、小さくつかれた溜息すら、今は少しだけ、怖かった。それでもひとつひとつ音を拾っていくのは、それが自分へ向けられているものだからこそ。物事を、断言される事に弱くて、違うはずだと言う頭の警鐘が、順に静まらされていく。諭されたように落ち着いていく吐息は、熱い頬に比べて不思議なほどに冷えていた。頭の中で何度か、彼の声で、繰り返される、意味の無いという言葉。思いこまされるかのように何度も何度も響いて消える。戸惑うように伏せ掛けた睫毛が揺れただけで留まったのは、一歩近づいてきた相手を視認したからだ。波打つ視界を晴らすようにと持ち上げた手は、自らが拭うまでも無く鮮明になった視界のお陰で中途半端な位置で止まったまま、)――…………、……、(触れられた温度に溶けかけた涙が相手の指先へと伝って、片方の瞳だけが水面越しで無い彼を映し出す―触れる指先の優しさはこんなにも肌で感じるのに。泣きだす一瞬前の表情で、それでも真っ直ぐに相手を見上げ、言われた事を理解して飲み込むように、こくん、と喉が上下した。柔らかい風よりも緩やかに触れて撫ぜて去っていく指先に、芯の細い髪の毛が惑わされて揺れる。隣を抜ける相手との触れられそうな距離に、手を伸ばす事が出来なくて、遠ざかる足音が胸に響いた。頭の中で、言われた事を、そうっと繰り返す。受け入れてくれるのが嬉しくて、相手をしてくれるのが嬉しくて、繋いだ手が暖かくて―だから、懐いていただけで、みんな大好き!のみんなのうちの一人で、それだけ―、だったんだろうか。そうしたらどうして、こんなにもいろんな事が怖くて、痛いんだろう。顧問に怒られる時の様な頭に刺さる様な痛みじゃなくて、じくじくと内側から握られている様な未知の感覚。はた、はた と、片目から零れた水滴が廊下に弾けて、冷たいフローリングの上でぴちりと染みる事無く蛍光灯をきらきらちかちかと反射する。聞こえていた足音が、何でもない音に消えて―、ひとり、なんだと漸くに気付く。もう必要なくて、無駄な時間で、だからもう、何も無くて。今更、何かに弾かれた様に振り返っても、続いているのは、無機質に色を反射する廊下だけだった。くしゃりくしゃりと表情が溢れ出す。)―…ゃあ…、…いや、ぁ、…っうー…(ぼろぼろ零れるそれを拭うのではなくて隠すように両手の甲でちぐはぐに目許を覆って、いや、いや、を繰り返す。恥も外聞も無く、何が嫌なのかなんて分からないのにただ、漠然としたぽっかりとした穴が急き立てるままに。舌も回らずに呟かれていたそれは、徐々に音を無くして、泣き声ともいえない呼吸音だけを、廊下に響かせる。まるでひとりぽっちのような冬の空気に晒された校舎の中で、触れられた瞳だけが、燻ぶる様に淡い熱を持っていた―)