(先日うっかり入門票で予防接種を受けていないと保健委員長に知られた綾部は、ついこの間、彼の付き添い―という名の監視にも近い同伴を受けて痛くないと言う病院にて予防接種を強制接種させられた。今日はその経過を新野先生へと見せる日であり、昼食時間に―多少の意図的も含めて―すっかりそれを忘れていた綾部は、クラスの保健委員からの勧めもあり、LHRの始まる前にずいっと腕を新野先生の前に差し出してきた。――その帰り道。窓から見えた隣の棟にチラホラと、なぜか、人影―それも生徒にしては大きな影―が慌ただしく走っているのが目に入った。あれは何―、と考えるより先に何か面倒臭そうな雰囲気を感じ取れば、教室へと戻ろうとしていた踵を返して委員会室の方へと向かう。君子危うきに近づかず―と自分を持ち上げるフレーズを選べば聞こえは良いが、単純に自分に関係がない面倒事に巻き込まれるのが嫌というわがままなそれで。階段をひとつひとつゆっくり登りながら、今日は委員会の日だったかどうかすら覚えていないものだから鍵が開いてるかすら分からなかったけれど―、まあ どうにかなる、という思考回路は常と同じ。どうにもならなければそのまま屋上へと昇るも良いし、遠回りしてみるのも手だろう―この学校に居たら暇のつぶしかたなんて迷わない程ある。どちらにせよ余りLHRに真面目に顔を出す気は、隣の棟で走る誰かの姿を見た時点でなんだかすっかり消えていた。てれてれとしたやる気のない歩調を崩さぬまま、手摺に手をそえつつ階段をのぼりながらふと視線を上げれば、窓から見える渡り廊下を、1棟に向かって来ている―ここ最近はもう毎日のように姿を見かける―千曲が見えた。その姿に何となく、自覚か無自覚かはともかく少しだけ歩調を速めれば―たんたんたん、と廊下をテンポ良くのぼり――相手が急ブレーキを踏むか、Uターンをしないかぎりは、階段を登りきった自分とちょうど廊下で鉢合わせる感じに、相手の姿を捉えられるだろうか―)
(普段であればいつものことかと流していたかもしれない。大変だなあなんて呑気に呟いて、次の授業の準備に駆り出されていただろうけど、――学園長が全速力で通り過ぎて行ったぞ。なんで?追いかけられて。誰に?先生達に。―へえそうなんだと流すには、この時期の騒動、自身らの所属する学級委員長委員会の顧問である学園長の行動は、なんだか嫌な予感がしたものだから。)学園長!(探してくる、という肝心な目的語を置き忘れたまま席を立てば、見送られるままにぶんぶん手を振って教室を抜け出して。―とはいえどこにいるのだろうか。騒がしい方へ、なんて単純な推理すら出来ない千曲には、とりあえず足を進めながらも行く当てはないままに。ぱたぱた乾いた音を廊下に響かせて、学園長がどこに逃げるか考えた。――やっぱり学園長室かなあ。心の中で呟いて、1棟へ足を向け始めれば、歩いている内に深刻さはすっかりどこかへ忘れてしまうのか。学園長ってば元気だなあ…、としみじみ小さく呟いてぱたりぱたり、急ぎめの足取りはそれが常のものだから―)わ、とと、綾部せんぱい!(ひょっこり姿を現した彼に慌てて足を止めながら、こんにちは!と声を掛ければ嬉しそうに顔を綻ばせて、慣れた数歩の距離まで近付いて、ゆらあり首を傾げた。)あやべ先輩、これから教室に戻るところですか?(ちょうどすれ違いだろうかと背後を指差しつつ、やっぱりこの広い学園内では会いに行く以外で遭遇する確率は少ないものだから、些細な偶然が嬉しくて、自然と頬を緩めて、それから離れかけていた本来の目的を思い出せば、そうだと手の平を鳴らせて、)私学園長を探してたんだっ…―、(た。そのままのポーズで言葉が途切れるのは、思いも寄らぬところから探し人の存在が知らされてしまうから――本当に、余計な言葉と共に。全校放送?これって聞かれていい内容?頭の中でぐるぐる回る現状理解の為の問いは、掴み切れないまま、きょとんといつもの間の抜けた表情で、その放送を聞くことになるのだろう―、)
ザ――…
(小さくノイズが聞こえたかと思えば、言い争っているのだろう声は、殊更大きく響いた)
何じゃ!スパイ活動くらいどの委員会もみんなやっておるじゃろ!
(驚く顧問達の声は誰が聞いても肯定であっただろう)
(そして駆け付けた放送を知らせる声によって、乱暴に放送の電源は切られた――)
…ブッ――
(最後の段を上って曲がればすぐ。思い描いた通りにそこに居る千曲。うん、よし。なんてそんな気持ちと共に、明るい音を伴った挨拶にゆったりと首肯して。常よりも急いでいたように見えていたのだけれど、のんびりとした問いかけに誤解だったのかと処理しながら、ふわりと髪を左右に揺らせば「ううん、」と呟き。)…何だか騒がしいから。静かなところへ行こうと思って。(否定をしては見せたが、指さされた方向へ行くのは本当。一度ちらりと背後を見やってから、千曲は?と問う様に視線を指先からなぞって彼女へと向ける。もう見慣れたものになった笑顔に綾部も微かに目を細めて―。―しかしそんな柔らかな空間が乱されるのは、直後。廊下に設置されたスピーカーからのノイズは耳に付き、それに次いで告げられた生の声は至極直接的に運ばれてくる。見上げた瞳は、普段通りの無表情にも似た視線だったけれど、微かに揺れる睫毛は心情を表していて―――あぁ、と内心。何かがすとんと納得した。そう言えば、彼女と初めて面と向かって話した時、確か自分は唐突に視線を感じ始めたから、その原因を穴に落とそうとしたんだった。すっかりと忘れていた事実が今になって歯車が合致して―それと同時に瞳を伏せる様に目を細めた。数秒。ずっと息を止めていたかの様に大きく息を吸えば、千曲へと視線を向ける。いつもよりどこか捉え所のない、定まらない視線が千曲を映しているのに、まるで何も見えていないかのようにつるりと光り、)―――…作法委員も、調査をしていたんだけれど、…吉野先輩が確か、委員長委員会の人を担当していたはず。(詳しい事は覚えて居なかったが、そう言った事を余り好まなさそうな先輩が行っていたという相手の所属だけは聞いた覚えがあった。淡々とした口調は、まるで先程の放送をまるで意に介していない様な物だっただろうか。唐突な話題提供だって、綾部ならばいつものことだと済まされる筈。普段の行いの賜物だと、黙らない為に言葉を紡いでみせる。自分の言葉選びが優しくない事は分かっていたから、今は、それに余り触れたくなくて。「学園長は、放送室にいるみたい、」と自然、視線を千曲から放送室のあるだろう場所へと向け。そのまま、もう彼女に向く事はなく。)見つかったね、学園長、早く行かないとまた、居なくなるかも。(自分があがってきた階段をまた上がれば、放送室のある階だったはずだ。つい、と避ける様に一歩引いてから、次は平時よりも大股で彼女の脇をすり抜ける。触れられないような距離を保ったそれは、きっと隣に居る事がイヤでは無かった彼女にはした事のない対応だったかもしれないけれど、動作はごく自然に。自然を装った、出来る限りの物で。―別れ際の挨拶一つないそれは、まるで初めの頃のやり取りのように平坦な会合として終わる。呼ばれても振り返らないし、何時もの如き飄々とした足取りで高等部の校舎へと帰って行く。―理解を示すわけでも、責めるわけでも、どれでも、何でも無い反応は、しかし確かに薄く、それでいて確りと線を引く何かが、綾部によって二人の間に置かれた事を示していた―)
(今日は機嫌は良さそうなのかな?なんて些細な変化も読み取れるようになってきたのは、千曲が言葉の対応に拙い分、表情の変化には聡いということなのか、それともそれだけの時間を重ねてきたということか――この後も通常通り行われるLHRのことを思えば出席するのだとばかり思っての問い掛けだったのだけど、否定の呟きに、傾げた首が、こてん、と反対側に傾ぐ。それから、)―ぷは、駄目ですよー。LHRでも、ちゃんと出席しないと怒られちゃいますよ?(珍しく学級委員長らしい台詞を紡ぐも、らしいなあと浮かべられた笑みからは咎める様子は微塵もなく。そんな、何てことのない―なかった日常が、色を変える瞬間。を、千曲は至極冷静に見つめていただろうか。遠くの―複数の場所から響かせられる声に、為す術なく瞬くことしか出来なくて、走馬灯のように周囲の変わり始めた人間関係が駆け巡る。もし、仲が良いなあと嬉しく見つめていた関係が、利用される為に作り上げられただけの物なのだとしたら、それは―、)…っ、……でも、まな先輩とさぶろー先輩は、そんなんじゃ…、――(彼が挙げた親しい先輩の名前に、咄嗟に並べた同じ委員会の彼の名は、この状況になって千曲が、そうだと、認識した何よりの証拠―。だけれど大好きな先輩達は、二人だけは違うと思いたくて―無意識に自身と、目の前の彼とを重ねて、「ない、です…、」と、何とか痞える喉から搾り出した否定は弱々しくて。全く自身達のことには触れず、逸らすように上辺を滑る言葉に必死に言葉を紡ごうとしているのが場違いのように思えて。怖くて。感情の伴わない笑みを、ただ貼り付けたまま。じわりじわりと違和感に侵食されていく。―彼に隠し事をしているつもりはなかった。きっと聞かれれば容易く答えていた。それでも、今、彼が知ったという事実、そして彼の態度の変化は、きっと―恐らく、だけど絶対、傷付けてしまったことに違いないと、感じ取れてしまうから。――頭が真っ白に冷え切っているのに、何故だか目頭に込み上げてくる熱に焦点も合わせられなくなって、)……、 …… っ …、…………、(肝心な時に限って回らない口に内心悪態を吐くことも出来ぬまま、彼が開いた、絶対的な、距離――、)……――、(反射的に振り返って、名前を紡ごうと思うのに、から回る唇から吐息すらも音にならなくて。名前を呼ぶことすら許されない気がして。遠くなる背を追いかけることも出来ず、渡り廊下のコンクリートに縫い付けられたままの足は、本当に鉛でも入っていそうな錯覚を覚えたまま、――不自然に、唇だけは半月を描く。ゆっくりと。何が悪いのか分からないけど、何かが悪いということだけは明確に頭の中に錘を乗せて。)…だって、ずっと前から…、(―最初の1週間程度で、スパイ活動のことなんてほとんど頭から抜けていた。だから、ただ会いに行っていただけで、―委員会の為を思えば本当に役立たずだったけど、ゆっくりと紡がれてきた関係は、難しいことなんて抜きに、自然に、存在していたと思っていたのに。――それが一方的な考えだったなんて今まで思いもしなかった。いつもいつも、最後の最後で考えが足りない。それでも一つ。分かること。)――……あやまらなくっちゃ。(―とおくで、本鈴が聞こえる。けど、そんなもの、今は耳に届かなくって。悪いことをしたなら『ごめんなさい』と相場が決まっている。きっと、きっと、許してくれる。今は信じることしか出来ないけど。きゅっと唇を引き結べば、ぱんぱん、と頬を鳴らして、―気合い注入!ふっと短く息を吐いて、彼の去った方をしっかりと見据えれば――今すぐ追いかけよう。らしく無鉄砲に、駆け出して、)――あやべせんぱい!