丘の上の桜の木の下

(宴も酣、紺碧の空に白く映える宵の桜の下で、ふたり――)
立花仙蔵(夕闇を迎えて尚賑わいの収まらない裏山は、燃え立つ陽の赤さを越して静かな夜の気配に包まれ始めている。そろそろ片付ける者も出て来るかと思いきや、序でに夜桜も堪能していこうという算段か、ちびちびとおつまみや飲み物をつまみながら談笑の輪は途切れない。そんな中で立花が腰を上げた理由を、周囲の友人は皆まで言わずとも察したと云わんばかりの顔でひらひらと手を振り、今度は此方が追い払われる仕草をされた事に小さな微笑みをひとつ、向かう先は勿論”彼女”の元である。―すこし桜を見て歩かないか?、誘い文句は二人きりになる口実であると一目瞭然なまでに分かりやすく、且つ在り来たりな位で丁度良い。周りの同級生や後輩等に「失礼、借りていくよ、」と告げてから、誘導するように彼女の片手を己が手で攫って、この団体から少し離れた並木へと歩を進めていって――喧騒が少しだけ遠くなり、二人の体が木々の間をゆく。花弁の薄い桃色は、濃紺に染まる空との対比で一層薄くひかっていて、)………あまり見る機会がないが、夜桜も綺麗なものだな。(予算会議の迫る時分ならまだしもこの時期に委員会で夜遅くまで残る事もない彼は、自然と朝夕の学園の桜を観賞するに限られていて。夜に何処ぞでこの花を視界に入れたとしても、此処まで咲き誇って鮮やかに目を奪う壮観な並木はそうそうない。感嘆混じりで落ちた声、今の夜空を固めた作ったような双眸はひらり 舞い散る花を追い、隣の金の髪に乗ったその一枚を繋いでいないほうの手で摘まんだなら、静かに離したそれは、夜風に乗る―)花見に来たのにこんなにゆっくり桜を見上げるゆとりもない…のは、この面子では今更か。しかし折角だ、花も団子も楽しんでおかないと勿体無い――…と言っても半分以上は建前だが、(緩やかに弧を描いた唇は、内緒話を明かすよう密やかに囁いて。瞳に映っているのが桜ではなく彼女である事を見ても、建前の裏に隠されたこの散策の目的は明らかである。合わせた歩調、二人のブーツの踵が重なって、まだ夜になりきれていない未完成の暗がりに伸びる影が、近く近く、寄り添っている―)

悪い事とかないのに、…なんだか、夜なだけで、ドキドキするね。
小野原夏帆(――散り落ちる桜の花びらが夕焼け色に染まるのを受けながらも、桃色の下で交わされる話題は底を尽きず。お花見が始まって暫くは色々なレジャーシートの上を生徒が行き来していたのも、夜闇が空の端っこから迫りくる頃には落ち着いて、自然と幾つかに分けられた集まりの侭に話題が弾む。こまめにちょろちょろと動いていた小野原も腰を落ち着けて、食べ物飲み物を片手に明るい話題に花を咲かせる――そんな中、つんつん、と隣に座っていた友人に肩を突かれて、指先で示される方向を振り返れば、薄暗くなったと言うのに一目で誰だか判断できる、相手。わかり易過ぎるほどに嬉しそうな表情を浮かべれば、食べかけだったものを整理して手を拭う。生暖かい級友の視線はもう、慣れたもので。――シンプルなその誘い言葉に、返すのは言葉よりも笑顔が先だった。重なる指先にはもう随分慣れたけれど、伝わってくる温度に感じる照れくささは相変わらずのまま、さくり、さくりと爪先が草を踏み分ける―。―ひとつ、ふたつ、月の光を受けて淡い桃色が灯る様に浮かびあがる夜の中。ほんの少し上を向くだけで降ってくるその色合いに、感嘆の声が無自覚に零れて、昼間とは雰囲気の違う桜を飽きることなく見上げる。ほとり、零された相手の声を受けては、緩やかに首肯して、)だね、だね。アタシ、夜桜って見るの初めて!(綺麗だ と、風に揺らぐ桃色を眺めながら、瞳いっぱいに映り込むのは宵と桜のコントラスト。向けられた手の平が髪間の花びらを掬いあげて初めて、頭の上にお邪魔してきたそれの存在に気付く―という程には、盲目に。摘ままれた花弁が彼の指先から風に乗せられる頃には、桜からその指先へと意識が持って行かれていたから、ついちゃってたね、とばかりにしまりのない笑みを浮かべて、ほんの少し恥ずかしげな色を浮かべた。―ひとつ、小さな声音を拾い上げるには桜を見ていると不安定で。灯りの光をちかりと瞳に揺らしながら、彼の方へと視線を上げる。きょとん、と、音にならない言外の言葉を察するまでの数秒瞬いて―、)――……えへへ。賑やかだったもんねー、お花見。ここまで来ちゃうと、少し静か過ぎちゃうくらいだけど…。(重なり合っていた指先にきゅっと力を込めれば、さくりと草葉を踏みしめる次の一歩が半歩分だけ彼の方へと近づいた。繋がっていた指先が包まれる様にとくるりと少しだけ角度を変えて、相手の肩に触れそうな髪の毛がそよりと風に揺られて軽く踊る。そこまで劇的な二人の間の距離の変化はなかったけれど、なんだか少しだけ胸が高鳴って―。―ふと、宵色にも似た、桜に映える相手の髪に、桜を透かした月の光や屋台の灯火が揺れるのに気付けば、無自覚に目が奪われる。瞬きすら惜しい様にじいと数秒彼を見上げた後には、、)……でも、ここだと、立花くんを独り占めだねぇ、(なんて、感じたままが唇から滑り落ちた。先程までの賑やかに大人数も、決して、嫌いではないのだけれど、でも―なんて気持ちがにじみ出たような笑みと共に、一言――。そして、自ら言ったのだというのに、その言葉の恥ずかしさにワンテンポ遅れて気が付けば、慌てたように唇を結ぶ。空いていた方の指先を、お飾り程度に口元に添えて――誤魔化すように、へな、と零した笑顔は、しかし至極幸せそうに。――先程までは、子供じみた楽しさの浮かんだ瞳には、夜桜がその美しさを主張するかのように所狭しと映り込んでいたのに。今その瞳に映るのは、見慣れた、それでいて、少し前の冬の夜とは何もかもが違う宵の光と桜の中、それでも変わらずに指先からの体温が滲みあう、そんな相手の姿、ひとつだけ――。)

偶にはいいものだな、…何をしても、今は桜が隠してくれよう。
立花仙蔵(綺麗だと、素直に思う。花は散るからこそ美しいと言うしそれも分からないでもないけれど、矢張り花弁開いた盛りの時こそ一際美しいと、そう思うのは、隣で笑顔を咲かせる愛らしい”花”を見ていて実感させられる事だからだった。素直な感嘆が聞こえてくれば、それだけ喜ばれるのならば桜も咲いた甲斐があるだろうに、胸中で呟いて目を細めるのだ。)…なら、来年も見に来ようか。(短く紡いだのは、抜け目ない予約―こうして皆で花見をするならば今宵のように途中二人で抜け出せばいいし、都合が合わずにお流れとなったなら二人きりで来ればいい。四季折々のイベントに一々自主的に首を突っ込みたいと思うには些か淡白なきらいのある立花は、元来傍観者の側で楽しみを得る人間だ。それでも、手を伸ばしたら届くこの距離で、行事を堪能する彼女の明け透けな感情に触れるというひとつの楽しみを見出した今だから、彼女と交際を始めたこれからは今迄以上に賑わいを増す日々も想像に難くない。それに微かな期待を馳せながら、花びらをくっ付けていた事に気付いていなかったとばかりにはにかむ薄紅の表情に、此方も柔らかく顔を緩めた。――室内のように篭る事のない吹き抜けの広い裏山では、少し歩くだけでも喧騒は風で和らいで届く。完全に隔離されているのではない距離感だからこそ秘め事でもしているかのような感覚がとみに湧き上がり、はぐれるでも迷うでもないのに繋いだ指先で互いの体温が溶け合う、心地好さ。そんな時間を今暫く守って吹く花吹雪に毛先を揺らしつつ、―遠回しな言葉の裏を察した彼女が更に視界を占領した距離で、声無く見つめてくるその玉響、月光よりも鮮やかに彩っている姿に魅入ったのは立花も同じであったと彼女は気付いたろうか。落ちた声音は相も変わらず真っ直ぐで衒いなくて、此方のほうが面映くなる胸中が滲んで口元が凪いだなら、)ふふ、……そうだな、お前の特権だよ。私を独り占めするのも、…こうして抱き締めるのも、(ひくく囁いた彼は、可愛らしい恥じらいを知っていながらそれを助長させるよう、繋いだ手を引いて両腕の檻に恋人を囲う。それだけでは飽き足らぬと近づいた紫苑の双眸には、最早桜の入る隙間なぞ無く、)それから、――それ以上の深いところまで許すのも、夏帆だけだ。(ああ、本当に弱った。―随分参っているみたいだ、なんて惚気と変わりない呟きが声にならなかったのは、彼女の唇を攫って塞がっていた所為。寄せては引いて、繰り返す合間に瞼を上げて彼女の反応を楽しみながら、再び指を繋いで絡めよう。やがて満足気に空いた片手で金の頭を胸へと抱き込めば、「……もう少し、独り占めしていてもいいだろう?」、花を広げる桜の天井の下で問う立花の腕が返答を確信して囲っているのは、自惚れではない筈。心の内側からあたたかくなる彼女の笑顔に微笑みを返す傍らで、昼間の賑やかな青空に映える花も立派に綺麗だったけれど、記憶に残るのは恐らくこの、彼女の笑顔に降り注ぐ桜色なのだろうと、焼きついた瞼裏が大事な物を抱えるようにそっとまたたいた――)


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